悲しい知らせが届いた。デザイナーの黒川勉さんが24日に亡くなった。
1962年生まれだからぼくと同じ歳だ。
- 生活雑感
ぼくが初めて黒川さんと会ったのは上北沢にあるインテリアデザインの事務所スーパーポテトのオフィスだった。たぶん80年代の終わり頃だったと思う。そこで新作のホテルのバーのインテリアデザインの仕事を見せてもらったことがある。それから少し経って、スーパーポテトを独立して、原宿のフェイスビルの裏手にある集合住宅の一室で、片山正通さんと一緒に設計事務所を設立した。これは1992年だったはずだ。設立のお祝い会が事務所であって、少しだけお邪魔した。その後は……そうだ、六本木にオープンしたテリー伊藤プロデュースのキャバクラに行った。客としてではない。そこは黒川さんと片山さんがインテリアデザインを手掛けたお店で、オープン前の店内を見学させてもらった。と、仕事でお会いしたのはこれが最後。ぼくはその直後に、店舗のインテリアデザインの専門誌の仕事を辞めてしまった。
その後、事務所の共同設立者の片山さんはNIGO氏の仕事などで一気にスターダムにのし上がり、デザインセレブの仲間入りを果たしたけど、黒川さんはどちらかと言うと地道という言葉が当てはまるような仕事ぶりだった。ただし、その頃からぼくはお店のインテリアデザインの世界とは疎遠になり、その後の彼のデザインワークは雑誌の写真とキャプションで知る程度だ。
訃報を聞いた瞬間、黒川さんはこれまでの仕事の中で、自分の実力をフルに発揮できたのだろうか、とぼくは思った。誤解を恐れずに書くと、ぼくにとって黒川さんは未完の大器という言葉がふさわしい人物だったからだ。もちろん、時々、誌上で拝見していた黒川さんのデザインは本当にハイレベルなインテリアデザインであったのは言うまでもない。でも、ぼくはいつも、黒川さんの実力はそんなものではなくて、いつか世界が驚くようなスゴイ仕事に辿り着くはずだという、ぼくなりの確信があった。初めてスーパーポテトで会った時、見せてもらったバーの写真を見てからずっとそう思っていた。以来、その第一印象が薄れることはなかったのだ。デザインジャーナリスト川上典李子さんが書いた「リアライジング・デザイン」という本の、5人のデザイナーの一人として黒川さんが登場する。黒川さんの仕事がちゃんと評価されているのが嬉しかった。
黒川さんはお酒を飲むと饒舌になった。普段はシャイで、真面目で、少し取っ付きにくい印象があったけど、お酒が入るとそんな垣根をひょいと越えて、気を許し、いろんな話ができて楽しかった。ただし、ほとんど「デザイン」についての話。独立したばかりの頃、「収納ギャラリー」で行われたデザイン展の後、青山のバーで飲んだ時、黒川さんは「デザイン」という言葉は誤解されている、という話をしていて、デザインに代わる新しい概念が欲しいと言っていた。その後、新宿パークタワーの地下にあったカラオケボックスのラウンジで、リビングデザインセンターOZONEの「リビングデザインギャラリー」オープニングの後、スタッフを交えて飲んだのは、その頃、OZONEの方が模索していたデザイナーのネットワークづくりに関する最初の打ち合わせの席でもあった。しかし黒川さんは、そうしたネットワークには参加しないと毅然とした意見を返してくれて、頼もしく思った。とにかく真面目な人だった。最後に会ったのは、昨年末に広尾で行われたパーティーだ。そこでもデザインと雑誌の話をした。そういえば、どんな話の流れだったか、スーパーポテトで最初に見たバーのインテリアの話もした。ぼくは黒川さんの底知れない実力と情熱がいかんなく発揮された空間が見たかった。これはぼくの勝手な思い込みだけど、彼はぼくが考えていることや、ぼくの仕事の理解者の一人だったと信じている。だから叱咤激励されることもたびたびだった。期待に応えられなくて本当に悲しい。時間はまだまだあると思い込んでいた中途半端な自分が不遜だった。申し訳ない。会った回数も数えるほどで、世間話の延長のような話が多かったけど、もっとデザインについてお互いの論を闘わせるくらい膝を詰めて話をすれば良かった。
7時間離れたドイツの空の下から、故人のご冥福をお祈りします。
その後、事務所の共同設立者の片山さんはNIGO氏の仕事などで一気にスターダムにのし上がり、デザインセレブの仲間入りを果たしたけど、黒川さんはどちらかと言うと地道という言葉が当てはまるような仕事ぶりだった。ただし、その頃からぼくはお店のインテリアデザインの世界とは疎遠になり、その後の彼のデザインワークは雑誌の写真とキャプションで知る程度だ。
訃報を聞いた瞬間、黒川さんはこれまでの仕事の中で、自分の実力をフルに発揮できたのだろうか、とぼくは思った。誤解を恐れずに書くと、ぼくにとって黒川さんは未完の大器という言葉がふさわしい人物だったからだ。もちろん、時々、誌上で拝見していた黒川さんのデザインは本当にハイレベルなインテリアデザインであったのは言うまでもない。でも、ぼくはいつも、黒川さんの実力はそんなものではなくて、いつか世界が驚くようなスゴイ仕事に辿り着くはずだという、ぼくなりの確信があった。初めてスーパーポテトで会った時、見せてもらったバーの写真を見てからずっとそう思っていた。以来、その第一印象が薄れることはなかったのだ。デザインジャーナリスト川上典李子さんが書いた「リアライジング・デザイン」という本の、5人のデザイナーの一人として黒川さんが登場する。黒川さんの仕事がちゃんと評価されているのが嬉しかった。
黒川さんはお酒を飲むと饒舌になった。普段はシャイで、真面目で、少し取っ付きにくい印象があったけど、お酒が入るとそんな垣根をひょいと越えて、気を許し、いろんな話ができて楽しかった。ただし、ほとんど「デザイン」についての話。独立したばかりの頃、「収納ギャラリー」で行われたデザイン展の後、青山のバーで飲んだ時、黒川さんは「デザイン」という言葉は誤解されている、という話をしていて、デザインに代わる新しい概念が欲しいと言っていた。その後、新宿パークタワーの地下にあったカラオケボックスのラウンジで、リビングデザインセンターOZONEの「リビングデザインギャラリー」オープニングの後、スタッフを交えて飲んだのは、その頃、OZONEの方が模索していたデザイナーのネットワークづくりに関する最初の打ち合わせの席でもあった。しかし黒川さんは、そうしたネットワークには参加しないと毅然とした意見を返してくれて、頼もしく思った。とにかく真面目な人だった。最後に会ったのは、昨年末に広尾で行われたパーティーだ。そこでもデザインと雑誌の話をした。そういえば、どんな話の流れだったか、スーパーポテトで最初に見たバーのインテリアの話もした。ぼくは黒川さんの底知れない実力と情熱がいかんなく発揮された空間が見たかった。これはぼくの勝手な思い込みだけど、彼はぼくが考えていることや、ぼくの仕事の理解者の一人だったと信じている。だから叱咤激励されることもたびたびだった。期待に応えられなくて本当に悲しい。時間はまだまだあると思い込んでいた中途半端な自分が不遜だった。申し訳ない。会った回数も数えるほどで、世間話の延長のような話が多かったけど、もっとデザインについてお互いの論を闘わせるくらい膝を詰めて話をすれば良かった。
7時間離れたドイツの空の下から、故人のご冥福をお祈りします。