今日、シュツットガルト市内の大学に通っている日本からの留学生がソリチュードに遊びに来た。某国立大学院生でアメリカの大学にも留学した経験がある。現在、市内の東郊外にある大学で学んでいる。シュツットガルトでの滞在は半年の予定だそうだ。スタジオで少し話をしてから、夕方、空模様が安定してきたのを確認して外出。裏手の森を抜けて湖を目指した。湖のほとりにあるお城のレストランは日曜日でも営業しているはず。いつもの散歩ではなんとなく歩いているともう一つのお城に着いてしまうので、ちゃんとした道順を覚えていなくて、あぶなく迷子になるところだった。けど、1時間歩いてなんとか目的地に辿り着き、お城のレストランでビールを飲みドイツ料理を食べた。ドイツはほとんど分からないため、かろうじて分かる料理を注文。豚肉のカツレツとホワイトアスパラガスのお皿をトレイに載せて、外のテラス席で早めの夕食を食べる。午後7時なのに陽はまだ高い。
それからバスに乗って市内に向かい、銀行に立ち寄ってからもう一軒飲みに行くことに。メインのショッピングプロムナードから二本裏手に入った、各国レストランが並ぶ通りで、少しだけカジュアルなイタリア料理店に入る。ここでは野菜系のアンティパストとカンパリ、ワインを注文したけど、ここもかなり美味しかった。ピザ生地の残りを丸めて焼いたと思われるゴルフボール大のパンは、さっくりもっちりした食感でとても日本人好み。しかもリーズナブル。そんなわけで客人に感謝の充実の一日でした。このお店を出る頃には午後10時を回り、陽もすっかり暮れてやっと夜が来たという感じだ。それからぼくはバスに乗りソリチュードに帰ってきた。
件の学生は20代前半から半ばの吸収力抜群の時にアメリカ、ヨーロッパで学んでいることになる。うらやましい。話を聞くと年齢の割にはすごくマチュアしていて、リベラルで驚いた。企業だと40代くらいの世代の感覚に近い。本人の資質もあるとは思うが、やはり留学経験が大きく影響しているのではないだろうか。ぼくなりに考えてみると、それは他者に共感する能力が高いということに関係しているように思った。日本に長年暮らしていると、世界各国の動向は文字通り「海外」のことで、各国の悲惨な事件や問題事も対岸の火事となりかねない。全国紙の一面に国外ニュースが載ることは滅多になく、海外で重大な出来事があっても日本ローカルのニュースの後ろに回されることが多い。大きな事故があるたびに繰り返される「乗客に日本人はいないものと思われます」というアナウンサーのコメントも、同胞の安否を気遣うのは当然としても、日本人がいないと急にニュースの温度が下がり、メディアまでも火事場の傍観者になることに違和感を感じている人は多いはずだ。しかしそれも違和感どまり。その先の「想像力」が働かないのもまた事実だと思う。かく言うぼくもそんな一人だった。でも、この「想像力」の欠如は国際社会における日本の大きな弱点ではないか。困っている人がいれば助けることはもちろん大切だが、その人の身になって考えることはもっと大切だ。それから何が困っているのかを自分なりに判断して助けるのが筋だと思う。それを実践している人々もいるが、ぼくたちは往々にして「とりあえず」お金で済ませてしまうことが多い。迷惑な物資を平気で送りつけたりすることだってある。
留学経験は日本人に欠落しがちな「想像力」の触覚を「海外」に延ばすことだと思う。なにより海外の異文化や先進環境の中で学ぶことにも意義はあるけれど、個人レベルでもっと大きな意義は、その留学の場で世界各国から学びに来ている人々と出会うことではないか。ウガンダに元学友が暮らしていれば、ウガンダの不安はその友人を介して自分の不安になる。キルギスで事件があれは「あの人」が生活している国の事として悲しみを受け止めることができる。こうしていろいろな国に友人知人が増えるたびに、ぼくたちの想像力の触覚はどんどん伸びていく。受け入れなければならない悲しみや苦しみも増えるけど、その分、歓喜の世界も広がっていく。リベラルとはそんな実感できる想像力の幅だと思うのだ。EUの試みは強大化するアメリカへの対抗勢力をつくるという相対的な考え方以前に、同じ大陸内の苦しみや喜びを、自国、自分のものとして受け止めようとする「想像力」のネットワークのようにも見える。誤解を恐れずに言えば、個人主義の社会だからこそ「想像力」によって自分を律し、それに名誉を与える大きな仕組みが求められたのではないか。これが「想像力」の大きな仕組みだとすれば、留学経験は個人レベルの小さな「想像力」のネットワークだ。もしくは「想像力」のコミュニティと言っていいかも知れない。それは留学しなければ得られないというものではないけれど、日本国内でそれを求めるのは簡単ではない。
今年の2月に他界したアメリカの評論家・作家スーザン・ソンタグ Susan Sontag の著書を、ぼくはまだちゃんと読んだことがない。読んだのは雑誌に掲載された、イシャイ・メヌーヒンに対しオスカール・ロメロ賞が授与された際のニューヨークでの基調講演「勇気と抵抗について」だけだ。彼女は病痾と闘いながら世界を講演し、その間に「他者の苦痛へのまなざし」「この時代に想うテロへの眼差し」という本を著している。いつか読んでみたいと思う。ニュースがエンターテインメント化した今日、ぼくたちはメディアからいかに他者の痛みを感じ取ることができるのか。その「想像力」が求められている。
よく「国際感覚」とか「グローバルスタンダード」とか言われるが、それは学ぶことではなく「感じる」ことだとぼくは思う。ひとくちに留学といってもいろいろなカタチがあって、学問の場所を単に海外に移しただけという人もいれば、日本人コミュニティをそのまま海外に移動しただけという人もいるかも知れない。そういう留学生は措いておくとして、個人レベルの小さな力ながら、「想像力」のネットワークを広げる努力はいつか報われる日がくると思うのだ。そんな自分を取り巻く「想像力」の世界的ネットワークに律せられる「個人」もある。大人とはそういうものだ。他方、日本のように「世間」や『組織」に律せられてきた「個人」もある。しかし世間や組織が崩壊しかねない現代の日本では、中途半端な個人主義と成果主義が進み「自己利益追求主義」のぎずぎずした社会になるのではと懸念してしまう。あるデザイナーがデザイン誌のタイアップ記事の中で、イタリアで仕事をすることをサッカーの中田選手に例え、自分自身も日本代表のつもりでデザインを発表していると書いていた。それを読んだ時は、何もそこまで「日本代表」を意識して仕事することはなくて、個人の仕事として淡々とこなしても良いのではないかと感じた。でも彼が言おうとしていたのは、日本代表として恥ずかしくない仕事をするということではなく、デザインという言語を超えたコミュニケーションの舞台で、デザインを通して自分自身に共感してもらうことで、その背後にある日本にまで共感の意識を広げてもらおうという意味だったのかも知れない。大きな視点、仕事のレベルで見れば、そのデザインが商品として受け入れられるかどうかが試されているわけだが、個人としてはそんな個人レベルでの「想像力」の伝播を求めることも良いのではないか。世界で学ぶ、世界で仕事をするというのはそういうことでもあるのだと思った。それは今日会った留学生からも感じたことだ。同じ大学の寮で生活するパキスタンから来た学友は、自国に貢献したいという強い使命感があると話してくれた。自分たちが生まれ育った環境で学ぶ目的は変わるけど、それを自覚できるかできないか、その想像力が得られることにも意味がある。そんなことを考えることができた良い日曜日だった。