ぼくは谷口ジローさんのマンガはどれも好きで、久住昌之さんが原作を書いた「孤独のグルメ」と「散歩もの」の淡々とした話もいい。セリフは少なくないけど説明過剰ではなく、谷口ジローさんの描き込みがハンパじゃないので「映画を読む」感じがする。もう旧聞に属するけど、こういうのをポストモダンと言うんじゃないだろうか。話の内容の説明は措くとして、どこを歩いたとかどこで何を食べてマズかったとか、今となってはこの手の話はWeblogでいろんな人がいろんな視点で書いているのだろう。「散歩もの」の単行本の帯には「大人はときとしてこういう散歩をする」と書かれている。散歩なんて死ぬまでの時間つぶしの一つで、あえて語るべきものじゃないけど、それを言葉にしようとするとどことなく哲学めいてくるのが不思議だ。それが散歩と旅行の違いかも知れない。そういえばドイツでは、哲学はドイツ人の散歩から生まれたと言われていた。パッセンジャータと呼ばれるイタリア式の散歩の様子をナポリの目抜き通りで眺め、かのエピクロス哲学も散歩から生まれたんじゃないかと思った。

ぼくは知らない街を何も分からないまま、目的もなくただ歩くのが好きだ。知らない道があると、無駄足になることが分かっていても、その先に何があるか分からなくてもとにかく歩いてみたくなる。こういうのも散歩と言えるのだろうか。昼食の外出の帰りに、近所の集合住宅の間の路地を人が歩けることを知った。暗く細い路地を進むと奥に小さな木造アパートがあって、その先はもう道がなくなっている。大きな紫陽花の木が一本。アパートは入り口の扉が開けっ放しで、6個の郵便受けに宅配ピザのメニューが同じ角度でねじ込まれている。行き止まりだけど、それでも引き返さないでアパートの外廊下を遠慮なく歩き、裏口の鉄柵を開けて暗渠の下水の蓋の上を通り、民家の私道を急ぎ足で抜ける。細い丸太の電柱を2回くらい曲がるとコインパークばかりの路地に出て、その先にファストフードの看板が見えた。その道を直進すると地下鉄駅のある通りまで出ることが分かり、回り道していつもの道を引き返す。途中、不思議なカフェを見つけて今度また行こうと思うのだけど、そこに行こうとすると場所が分からず、でも、気まぐれな散歩の途中でまた急に辿り着いてしまうことがある。そんな時はたいてい閉店で、ぼくはまた今度来ようと思う。けど、またそこに行こうとすると歩いても歩いても見つからない。そうして忘れた頃にまた辿り着く。