JALの機内誌「SKYWARD」10月号で、映画プロデューサー・映画監督の澤野計さんにインタビューさせていただいた。澤野さんの最新作「utsuroi」の上映会と写真家の若木信吾さんとのトークセッション「インディーズの映画制作」が、10月12日に青山ブックセンターで開催される。



銀塩写真かデジタル写真か。フィルムがなくなるかも知れないという事実に危機感を抱く写真家たちが、ゼラチンシルバーセッションというプロジェクトに参加して、いろいろなイベントを開いている。写真家の内輪で完結してしまい、写真家のエゴ丸出しで気持ち悪いところも少々あるけど、映画「utsuroi」にはそんな部分も隠すことなく記録されていると思う。語っても語っても、フィルムを残さなければならない理由には辿り着けない。逆に、写真家が語れば語るほど、核心から遠ざかっていくように感じることが不思議だ。暗室作業の意味や楽しさをいくら語っても、一般の人々はそれが銀塩フィルムを残すべき理由と納得はしづらいと思う。多くの写真家は自分の表現の道具である「フィルム」について、あまり意識することなく、水道の蛇口をひねれば水が出るごとく、何も考えずにフィルムを装填してシャッターを押し続けてきたのだろう。それはある意味当然で、問題は何で撮影するかではなく、何を撮影するか、だったと思うから。でも一人くらい、なぜフィルムなのか、フィルムとは何なのか、フィルムを使って写真でも映画でもない表現はできないか、フィルムを使わない写真はありうるのかとか、写真とフィルムの関係を疑う人がいても良かったと思うけどね。これは写真家だけの話ではないけど(印画紙だけの作品はありますね)。

この映画は銀塩フィルムをなくさないでほしいと懇願しているわけはなく、経済とか効率の優生学的な視点だけで急激に「置き換え」られていくことを、ホントにそれでいいのかとぼくらに問いかけているのだと思う。銀塩フィルムだけの問題ではない。論議される暇もなく、生産者と市場の判断だけでいきなり失われていく大切なモノはごまんとある。なくすのは仕方ないけど、なくす前に少しだけ考える時間がほしい。しかし判断のスピードが重視される企業経営や経済の世界では、それに頓着するヒマはない。考える時間をどんどん短縮させる社会と、人のフツーの感覚との隔たりを、銀塩フィルムの存亡と移り行く街の光景を通して改めて感じとることができると思う。あえて言うまでもないけど、世界は急ぎ過ぎだ。