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閃光少女/「ラブ&ポップ」 [美術/音楽/映画]

東京事変の「閃光少女」は2007年11月にリリースされた曲なので、PVが製作されたのは2年以上前なんですね。このPVは、一昔前の少女マンガやガールズムービーのような、10代女子の理由なき情動みたいなものが描かれていて(それは多くの場合、男子の妄想だったりするわけだが)PVというよりはコレ単体で上出来の映像作品という感じだ。何の関係もないこちらまでドキドキするような不思議な映像と、既視感がない新鮮なキャストもすごく魅力的だった。ディレクターはキャビアの児玉裕一さん。



で、なぜか「ラブ&ポップ」のラストシーンを思い出した。
1998年の映画「ラブ&ポップ」では、女子高校生をリアルに描こうとすればするほど、逆にどんどんフィクション色が濃くなっていく感じがした。真実に近づこうと語れば語るほど真実から遠ざかる。考えてみると、原作は村上龍だし、監督は庵野秀明で、あの映画も男子の妄想だったんだなと思う。それも織り込み済みなんだろうな。中沢けいさんが19歳の時に発表した処女作「海を感じる時」が衝撃的だったのは、マッチョな文学界がどれだけ言葉を重ねても描けなかった10代のリアルな女性が、さらりと描き切られていたからだと勝手に思っていた。男は女性を絶対に理解できないと思っている。でも本当は理解できないのは自分自身なのに、それは分かったつもりで、ただ分からないモノに惹かれているだけか、性欲の言い訳みたいなものだと思う。「海を感じる時」が出版されたのと同じ頃、少女マンガ雑誌に連載されていたマンガを愛読する男子が現れ始める。たぶん男の幻想ではない、女性が描く女性像を求めていたのではないかと思う。このへんの話はフェミニズムにまでつながるのかも知れない。妄想や幻想は、それはそれで面白いけど。


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銀塩フィルムとは何か [美術/音楽/映画]

JALの機内誌「SKYWARD」10月号で、映画プロデューサー・映画監督の澤野計さんにインタビューさせていただいた。澤野さんの最新作「utsuroi」の上映会と写真家の若木信吾さんとのトークセッション「インディーズの映画制作」が、10月12日に青山ブックセンターで開催される。

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銀塩写真かデジタル写真か。フィルムがなくなるかも知れないという事実に危機感を抱く写真家たちが、ゼラチンシルバーセッションというプロジェクトに参加して、いろいろなイベントを開いている。写真家の内輪で完結してしまい、写真家のエゴ丸出しで気持ち悪いところも少々あるけど、映画「utsuroi」にはそんな部分も隠すことなく記録されていると思う。語っても語っても、フィルムを残さなければならない理由には辿り着けない。逆に、写真家が語れば語るほど、核心から遠ざかっていくように感じることが不思議だ。暗室作業の意味や楽しさをいくら語っても、一般の人々はそれが銀塩フィルムを残すべき理由と納得はしづらいと思う。多くの写真家は自分の表現の道具である「フィルム」について、あまり意識することなく、水道の蛇口をひねれば水が出るごとく、何も考えずにフィルムを装填してシャッターを押し続けてきたのだろう。それはある意味当然で、問題は何で撮影するかではなく、何を撮影するか、だったと思うから。でも一人くらい、なぜフィルムなのか、フィルムとは何なのか、フィルムを使って写真でも映画でもない表現はできないか、フィルムを使わない写真はありうるのかとか、写真とフィルムの関係を疑う人がいても良かったと思うけどね。これは写真家だけの話ではないけど(印画紙だけの作品はありますね)。

この映画は銀塩フィルムをなくさないでほしいと懇願しているわけはなく、経済とか効率の優生学的な視点だけで急激に「置き換え」られていくことを、ホントにそれでいいのかとぼくらに問いかけているのだと思う。銀塩フィルムだけの問題ではない。論議される暇もなく、生産者と市場の判断だけでいきなり失われていく大切なモノはごまんとある。なくすのは仕方ないけど、なくす前に少しだけ考える時間がほしい。しかし判断のスピードが重視される企業経営や経済の世界では、それに頓着するヒマはない。考える時間をどんどん短縮させる社会と、人のフツーの感覚との隔たりを、銀塩フィルムの存亡と移り行く街の光景を通して改めて感じとることができると思う。あえて言うまでもないけど、世界は急ぎ過ぎだ。

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BMWアートカー [美術/音楽/映画]

ぼくがいちばん好きなクルマは、今でもBMW2002だ。1965年に発売されたマツダファミリア1000クーペには、BMW2002の面影があってコレも好きだった。ちなみにBMWの02シリーズが発表されたのは1966年だから、ファミリアがBMW02の真似をした訳ではない。3代目カペラもどことなくBMWの雰囲気があった。

ずいぶん前になるけど、去年の春に「森アーツセンターギャラリー」で開催された、BMWの展覧会に合わせて、エスクァイア日本版に書いた原稿です。写真はこのサイトからダウンロードしました。問題があれば削除します。

「透明なスピード|BMWアートカー展」史上最速の現代美術

1886年、ドイツで世界初の自動車が発明されて約120。その歴史は自由拡大と解放に邁進した近代史にも重なる。自動車というプロダクツは単なる二点間の距離の克服という目的を超え、激動の20世紀を写す鏡として、時には過激に進化し、洗練され、夢の工業製品のフロントローにあり続けた。今や自動車は、富や知の象徴であり、ハイテクのシンボルであり、それを運転する者の自我が宿る身体の延長でもある。“ドライブ”も今では、単に“運転”を意味する単語ではない。

   

美術の概念もまた、20世紀に大きく変化したものの一つである。この時代、美術作家の一部はアトリエを離れ、都市をキャンバスに、眼差しをナイフに挑戦的な作品を制作するようになる。身近なプロダクツも作品のモチーフとなった。こうしたムーブメントの交点に、魅力的な工業製品である自動車が登場するのは時間(と費用)の問題だったと言えるだろう。最初のBMWアートカーが制作されたのは75年。オークショネアでレーサーでもあったエルヴェ・ポーランが、初参戦するル・マン24時間のため、BMW3.0CSLのカラーリングをアレクサンダー・カルダーに依頼したのがBMWアートカーの原点だ。モビール作家が制作したオートモビルの作品は、残念ながら7時間でコースアウトする。その後、アートカーの制作はBMWがイニシアチブをとるようになり、現在に至っている。

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さよなら、世界夫人 [美術/音楽/映画]

政局が不安定になってきたり、何が正義が分からなくなったり、とんでもない悲劇が世界のどこかで起こったとき、ぼくのアタマの中ではいつも頭脳警察の「さようなら世界夫人よ」が流れている。ヘルマン・ヘッセの「さよなら、世界夫人」の訳詩にPANTAがメロディをつけた曲だ。この歌の影響で、ヘッセの詩集を買ったこともある。オリジナルの、というか、植村敏夫さんが訳したヘッセの「さよなら、世界夫人」は、頭脳警察の曲の歌詞とは少し違っていたけど、他の詩には特に興味はなく、それだけ読んで満足していた。

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シュツットガルトにいた頃、市内に住んでいる弁護士夫妻に、ガールフレンドと一緒にヘッセの生地であるカルフまでドライブに連れて行ってもらったことがあった。カルフはシュツットガルトからクルマで1時間ほどの小さな町で、山に囲まれて、街の中心には川が流れていた。「車輪の下」に登場する橋はこの川に架かっている。この橋を渡ったときも頭脳警察の曲を鼻歌で歌っていた。この歌を聴くと、なんだか切ない気持ちになる、ぼくたちは、まず、あきらめることから、この世界と向き合わなければならない。しかも、その悲しさに麻痺している。最近また、ぼくの中のぼくは、ずっと「世界はがらくたの中に横たわり……」と「さようなら世界夫人よ」の歌詞を口ずさんでいる。社会生活とは、当たり前のように、自分の無力さと無情を知る修業みたいなものだ。

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音楽 [美術/音楽/映画]

先週はベルリンからグラフィックデザイナーのカロリン・シュタインベックが来日していて、仕事の合間に少しだけ東京見物に付き合って、ぼくも新鮮な目で東京を楽しむことができた。カロリンは帰国するのにコンテナが必要と言ってたけど、ぼくも始めてヨーロッパに旅行した時はそんな気分だった。

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カロリンはチェリストのガブリエル・リプキン Gavriel LipkindのCDジャケットと冊子のデザインを手掛けていて、今回はガブリエルの来日公演に合わせて東京にやって来た。最初の1週間はメタデザインで仕事をしているウーラも一緒だった。ガブリエルの演奏は、サントリーホールのロシア・ナショナル・フィルハーモニー交響楽団との共演しか聴きに行くことができなくて残念だったけど、サントリーホールで独奏したチャイコフスキーも素晴らしかった。結局ガブリエルは2曲演奏しただけで、休憩後のショスタコーヴィチの交響曲《革命》は客席で聴いていた。この演奏のウラディミール・スパヴァコフの狂気を感じさせる指揮は圧巻だった。最初の緊張感はロシア民謡風のリズムに飲み込まれ、演奏者自身も音に陶酔して、ステージの熱がどんどん上昇していき、革命の勝利を打楽器の連打に至る超ドラマチックな演奏だ。

ステージが跳ねてからウーラたちと「オーバカナル」で軽い夕食を食べていると、演奏を終えたガブリエルとカロリンも同席して、件のスパヴァコフの指揮の話になった。ガブリエルは演奏中はほとんど目を瞑っているのだけど、目を開けると、すぐ前に高揚したスパヴァコフの顔があって、それがあまりに激しい表情だったので、慌ててまた目を閉じたという話。どんな顔で指揮をしているのか気になるところだ。

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