1年以上前にニッカウヰスキー余市蒸留所に行ったことがありました。
それを記事にまとめたものです。



北へ。ジャパニーズウイスキーの故郷へ。
『ニッカウヰスキー余市蒸留所』を訪ねる。

北海道余市町。ニッカウヰスキー創業者、竹鶴政孝が選んだジャパニーズウイスキーの理想郷だ。ウイスキーは北の風土が育むもの。世界に誇る日本のウイスキーは雪の大地で20年後の夢をみている。余市蒸留所。そこは夢の続きだった。

「この飛行機はおよそ10分で着陸いたします。シートベルトをしっかりとお締めください……」。夜間飛行のボーイング777は、新千歳空港上空の雪雲の中を降下中だった。闇の中でも分かる純白の地平。冬の北海道は雪空の下で眠っている。空港からは札幌往きの快速電車に乗り、ターミナルで小樽往きの電車に乗り換える。北のウォール街と呼ばれた商都小樽から、さらにクルマで約30分。旅の目的地は余市という小さな町。ニッカウヰスキー発祥の地である。

北緯43度、日本海に面し、亜寒帯に属する北海道余市町。短く穏やかな夏と、シベリアからの寒気が粉雪を運ぶ長い冬、三方を囲まれた丘陵の雪解け水で潤う大地は、初夏には海霧に包まれる。人口約2万人の小さな町だが、“YOICHI”の名は、世界のウイスキーファンに賞賛され、日本製ウイスキーの代名詞となっていることを知っているだろうか。余市への旅。これは夢の続きの物語だ。洋の東西を問わず、神は夢に怯まぬ者の味方である。神に祝福されし大地と、時間と、夢の後継者の愚直なまでに真摯で丁寧な仕事がつくり上げるウイスキーは、今宵も世界の男たちの心を溶かし、想いは数十年の時を遡る。そして私たちに“命の水”とは何かを問うのだ。

2001年2月、英国「ウイスキーマガジン」主催のウイスキーテイスティングBset of the Bestが東京、エディンバラ、バーズタウンで開催され、ニッカシングルカスク余市10年はBset of the Bestに選ばれた。このニュースは「日本のウイスキーはできそこないのスコッチウイスキー」と罵る市井のウイスキー愛飲家を驚嘆させ、沈黙させるには十分過ぎた。さらに翌年、世界で3万人以上の会員数を誇るSMWS(ザ・スコッチモルトウイスキー・ソサエティ)は、余市を世界で116番目の蒸留所として認定し、会員頒布ボトルリストにニッカウヰスキー余市モルトを加えた。SMWSの認定基準はきわめて厳正で、これまでスコッチ以外の蒸留所で選ばれたのは余市とブッシュミルズ(アイルランド)だけだ。

なぜこの北の地に、世界が驚愕するモルトウイスキーの名品が誕生したのか。奇跡か偶然か。イギリスのウイスキー評論家ジム・マーレイは二つの海を越えてはるばる余市まで足を運んだ。彼は言う。「日本は世界的にテクノロジーで知られる国です。ところがここ(余市)では、百年前の伝統的な方法を活かし多大な手間をかけてモルトがつくられていたのです。石炭による蒸留、シェリーやバーボンの古樽での熟成。効率が最優先される現代では、こうした製法は世界でもごく一部のディスティラリーでしか見られなくなりました。(中略)これは世界的に見ても実に尊敬に値することです」(インタビュー/1999年9月ニッカ余市蒸留所にて。ニッカウヰスキー新聞広告より)。



英国人ジム・マーレイが驚いた製法。それはニッカ創設者、竹鶴政孝が1920年にスコットランドから日本に持ち帰った夢の続きだった。1849年、政孝は酒造業を生業とする竹鶴家の三男として広島県に生まれた。酒造に興味を持った竹鶴正孝は、大阪高等工芸(現在の大阪大学)醸造科で学び、先輩が経営する摂津酒精製造所に押し掛け入社を果たす。摂津酒造は寿屋(現・サントリー)の洋酒製造も請け負っていた。しかし洋酒とは名ばかりで、本格的なウイスキーを製造する技術も当時の日本にはない。これをウイスキーと呼んで良いのだろうか。竹鶴政孝と阿部喜兵衛社長の進取の気性はそれを潔しとせず、想いは日本初の本格ウイスキーの開発へと傾く。阿部は竹鶴に、モルトウイスキーの本場スコットランドで本物の技術を学ぶことを薦め、第一次世界大戦末期の1918年初夏、23歳の竹鶴は神戸港を発ち、単身スコットランドへと向かった。