ドイツで知り合ったチェロ奏者のガブリエル・リプキン Gavriel Lipkindが来日した。
http://blog.so-net.ne.jp/hashiba-in-stuttgart/2007-01-14
先週末に彼と東京で再開を果たし、雑誌「セブンシーズ」の厚意で、彼をインタビューする機会を得た。その内容は雑誌が発行されるまでは公表できないので、7月売りの「セブンシーズ」を見てほしい。彼は金沢と東京でソロコンサートを開き、「浜離宮朝日ホール」の東京公演はガールフレンドといっしょに聴きに行った。彼女は彼のCDジャケットを手掛けたデザイナー、カロリン・シュタインベック Carolyn Steinbeckの共通の友人でもある。ガブリエルが昨年リリースした2枚のCDは、ジャケットの仕立てがスゴく丁寧で本当に美しい。細部の細部まで神経が通った、クラフツマンシップすら感じるつくりになっている。このジャケットのデザインを手掛けたのが、ベルリン在住のグラフィックデザイナー、カロリンだ。彼女は考古学者のようなグラフィックデザイナーで、例えばバッハのチェロ組曲のデザインでは、バッハが生きた時代に使われていた書体や、バロックのグラフィック表現の意味を真摯に探ることをデザインの出発点として、その成果を現代版に翻案して形にしたものだ。書体の歴史や背景、その意味のリサーチをベースにグラフィックデザインを始めるデザイナーって、なかなかいないんじゃないかな。
http://carolynsteinbeck.de/
それはともかく、ガブリエルのコンサートだけど、その素晴らしさは一億の言葉をもってしても語り尽くせない感じだ。
とにかくどう讃えてよいものか、どんな褒め言葉も陳腐に思えるくらい神々しい演奏だった。彼の演奏は、多くの名演奏家と同様に“楽器の巧みな操作”というレベルのものではない。卓越したテクニックはCDの演奏からも十分に窺えるが、彼のテクニックがどれだけスゴイと語ったところで、この日の演奏の素晴らしさは伝えられない。だからぼくが個人的に感じたことだけを記す。これは未来の自分のために残す記録だ。
最も根源的な疑問。
彼にとってチェロとは何なのか。
さらに、
私たちにとって音楽とは何なのか。
いずれも抽象的な問いではなく、演奏の合間の、ふっと我に帰る数秒の間に、本当にそういう切実な疑問が押し寄せてきたのだ。その“疑問”とは、たぶん英語で言うところのAncient questionってヤツで、「愛とは何か」とか「生きるとは何か」という問い掛けと同じ類いのものかも知れない。
彼の演奏を通して、ぼくの頭に浮かんだイメージは「三位一体」だった。
それは、ガブリエルのバッハの無伴奏チェロ組曲のCDジャケット裏面に、金箔とニス(チェロの仕上げ用)で描かれた三角形の暗示。神なる父は彼自身で、子=ロゴス、つまりキリストはチェロ、そして音楽は精霊。アウグスティヌスの三位一体論で例えるなら、言葉を出す者は彼で、言葉はチェロ、言葉によって伝えられる愛は音楽。父と子は逆なのかな。いや、やっぱりこのイメージだ。こういうふうに言葉で表すと、本質からどんどん遠ざかる感じは否めないので悲しくなる。ぼく自身、キリスト教についての知識はかなり貧困だから、そんな自分が不遜にも「こう感じた」と書くのは、ファストフードしか食べない人が三つ星レストランの料理の味を評するようなものだ。まったく本当に恥ずかしい限りなのだけど、ぼくはこれからの人生で、この日感じた「三位一体」の意味を自分自身で検証し続けていくつもりなので、どうか許してほしい。
ロゴスたる子とは、無垢で、時に傍若無人で、底知れぬエネルギーを秘めていて、それを抑えるすべを知らない。弦も胴も弓も、ピンと張りつめたテンションだけで構築されたチェロは、時にはなだめ、慰め、時には押さえつける尊厳と、力の導きを得て、初めて存在理由を獲得する。そして父と子とは単なる親子ではなく、彼のチェロは子ども時代の彼自身なのだと思う。ガブリエルの演奏は、自分自身を、「子の自分」を抱きしめている姿に見えた。ぼくはその父と子の2点上に結ばれる三角形の頂点、精霊に祝福され、この日のいい知れない感動を得たのだと思っている。精霊は目には見えないけれど、オーディトリアムにいた500人の人々はそれを感じていたはずだ。精霊は自分の何かに作用して、演奏中、ぼくの記憶は目まぐるしくドライブし、かつて同じ気持ちになった時の記憶がいくつもよみがえり、ああ、あれもこれも、この日の演奏と同じことだったのだと、思い出の一つ一つが心臓の辺りにストンと落ちていく感覚を得た。宗教家が神と出会う気持ちとは、意外にこういうことなのかも知れないと勝手に思っていた。これがガブリエル・リプキンの演奏の素直な感想だ。
もう少しだけ具体的な話を書くと、2曲目のブラームスのチェロとビアノのためのソナタは、チェロに溢れて破裂しそうな底知れない力を、ガブリエルが弓を使って音に換え救い出しているイメージがあった。ブラームスとはこんなにも力強いものだったのかと驚かされる。それは10代の終わり頃の女性に一瞬訪れる、内側(皮膚)と外側(肉体)のアンバランスな成長の、パンプアップした筋肉がキツい皮下脂肪を引き裂くほどに張りつめる肌のテンションと、その皮膚を脱ぎ捨てたいほどの苛立ちが、他者の肉体との接触によってしか収まらない切なさを連想させる。人を求める気持ちを欲望だけでは説明できない時がある。マンレイがチェロを女性の肉体に例えた意味に気づく。それは単なる形而上のことではなかったのだろう。だからと言ってガブリエルのチェロが“女性”のよう、というつもりは毛頭もなく、あれはやはり初めて弓を手にした頃の自分自身を抱いているのだと思う。無垢な心で何時間でも弾き続けられる無尽蔵のエネルギー。それは子ども時代にだけ舞い降りる天からの贈り物だ。彼のチェロにはその力と熱気が宿っている。
そして最後のセザール・フランクのソナタは荘厳な光に満ちていて、三位一体のイメージがもっともくっきりと浮かんだ演奏だった。この演奏はこのままCDにしてほしいと思ったけれど、これは今ここで、同じ空気の響きを彼と、ともに時間を過ごしている人々と共有していることに意味があるのであって、それを単なるデータに置き換えることは、彼への冒涜であるとも思った。二度と戻らない音を必死に体に採り込んで、感覚はどんどん研がれていく。この力は何だろう。濁りが沈殿して少しずつ透明になっていく感覚だ。その向こうから光が射してくる。あまりに見事な終わり方。それからアンコールが何曲も続く。
ガールフレンドはコンサートがはねて、家路の電車の中で、彼のチェロは“楽器”ではないと言っていた。その意味はぼくにはよく分かる。あのチェロは300年、ガブリエルの誕生と彼の体を待っていたのだ。そして出会えたことの喜びが満ち満ちていた。演奏者と楽器は一体であり、今の自分と少年時代の自分でもある。力の記憶を解放して何かを救う時にその関係は完結して、ぼくたちもまた救われるのかも知れない。こういう関係は他の世界にもあるのだろうか。
デザイナーの吉岡徳仁さんは「音楽はスゴイ。形も質量もないのに人を感動させることができる」と話してくれたことがあった。そう語った吉岡さんを改めて尊敬してしまう。音楽って本当に何なのだろう。この日の想いはこれから何十年も自分の中で蒸留され、いつかは結晶を結ぶのだろうか。演奏終了後、彼はホワイエに現れてサインを求める長蛇の列を、ニコニコ笑いながら迎えていた。ひょっとすると当日のガブリエルの演奏が特別だったのではなく、今の自分にとっての彼の演奏が特別だったのかも知れない。近頃のぼくはいろいろな落胆と暗鬱な想いを抱え、時にはそれらと向かい合うことを諦めて、すべてを否定したい気持ちに陥り、でも中途半端のまま強がって孤独を受け入れ厭世趣味で生きている。このままではつまらない自尊心が発火して、山月記の李徴のようになってしまう。博学才頴、虎榜に名を連ねる人間ではないので、人喰虎になるのではなく、人影に怯える薄汚れたノラネコになるのだろうと思っていた。今はただ、彼が演奏する時代に生きていることを感謝したい。
とにかく今日からはこの体験が、ぼくにとっての音楽だ。
http://www.towerrecords.co.jp/sitemap/CSfCardMain.jsp?GOODS_NO=1400236&GOODS_SORT_CD=102
http://www.towerrecords.co.jp/sitemap/CSfCardMain.jsp?GOODS_NO=1359334&GOODS_SORT_CD=102
With respect.