もう先月のことになるけど、10月22日に「思想の科学」の公開シンポジウムを聴きに早稲田大学まで出かけた。橋爪大三郎さん、坪内祐三さん、上野千鶴子さんの講演を聴き、さらに、加藤典洋さん、黒川創さんらを交えてパネルディスカッションが行われた。いろいろと考えることはあったけど、坪内さんが、雑誌「思想の科学」が休刊と再刊を繰り返して、1946年から今日まで生き延びてこれたのは(現在は休刊中ですが)、雑誌「思想の科学」いつも少しだけ時代遅れだったからだと思う、と発言されたのが印象的だった。時代にぴったり合っているものは、時代の変化とともに生命力を失っていく。少し遅れた感じがいい。意図的にそれをやるのは難しいけど。上野千鶴子さんは今後、ウェブにも活動の軸足を置くようだが、炎上の様子がもう見えている。いろいろ苦労するのではないか。橋爪さんはインターネットはゴミの掃き溜めだと言う。でもゴミの山の中に、キラリと光る価値あるものが紛れ込んでいることも否めないと結んだ。加藤さんのお話はとても面白かったのだけど、何が面白かったのかを忘れてしまった。

正直言うと、こんなに面白いとは思わなかった。「思想の科学」は、イデオロギーの影響を受けた思想ではなく、戦後、日本人の思想が混乱する中、人間が社会生活を送り日常を暮らす、営みのエンジンとして思想を捉え、メディアとして広く門戸を開けて、さまざまな人々の発言を受け入れてきた。実にプラグマティックな雑誌だったわけだ。特集「彼女がほしい」という号もあった。高名な思想家も市井の運動家も、政治家も普通の会社員も、この雑誌に論文を投じ、それを読んだ編集委員の誰か一人でも価値があると判断されれば掲載されたそうだ。載せるな、という拒否権もない。この雑誌を足がかりに論壇や文壇にデビューした方々も多い。