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5. 住居の原型 [デザイン/建築]



住まいの改良

 1851年にロンドンで世界初の国際博覧会が開かれた。この博覧会が近代の歴史に及ぼした影響はきわめて大きく、それはさまざまな方面にまたがるものだった。会場として建設されたジョセフ・パクストン卿の「水晶宮」は、鉄とガラスによるプレファブリケーション(prefabrication, 組み立て式)の歴史に大きな足跡をとどめたし、工業製品の質と生産量に博覧会が及ぼした力も大きかった。

 この国際博覧会での興味ある試みの一つとして「アルバート住宅(Prince Albert's Model Cottage)」と呼ばれる住宅改良モデルの建設がある。この建物はハイド・パーク(Hyde Park)の騎兵連隊兵舎に2階建て4戸の集合住宅として建設された。設計者のヘンリー・ロバーツ(Henry Roberts 1803-1876)は、19世紀の労働者住宅の改良に非常に大きな役割を果たした建築家で、労働者用の集合住宅ユニット・プラン(一戸の間取り)を完成させた人物として知られている。
 2階建て4戸のアルバート住宅は、2戸で一つの階段室を共有して戸口にアプローチするもので、原理的にこのモデルは上に積み重ねることも、左右に連続させることも可能だった。アルバート住宅が4階建てで各階6戸ほどのユニットの規模で建設されたならば、これは初期の日本の同潤会のアパートに近いものになる。

 産業革命のもたらした近代的な建築環境は、現在に残る壮大な町並みを生み出しただけではなかった。壮大な大建築は都市の偉観であり、町の表向きの顔であったが、その裏にはすさまじいスラムが広がっていた。社会思想家のフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels 1820-1895)は正当にもこう記述している。
 「ロンドンのように、数時間歩きまわっても町はずれのはじめさ達せず、近くに農村があることを推測させるような目じるしには、すこしも出会わないような都市は、いずれにしても独特なものである。(中略)しかし、これらすべてのためにはらわれた犠牲は、あとにあとになってはじめて発見される」(1844「イギリスにおける労働者階級の状態, The Condition of the Working Class in England」)。

 その「犠牲」とは、階級的には労働者階級であり、建築的にはスラムであった。エンゲルスの述べるロンドンのセントジャイルズ(St. Giles)のスラムを続けて見てみよう。
 「家には地下室から屋根のすぐ下まで人が住み、家の外も内もきたなくて、とうていこのなかに人が住めそうには見えない。それでもなお、これらいっさいのことは、街路のあいだにはさまった狭い囲い地にある住宅にくらべると、問題にならない。そこにはいるには、家と家のあいだにかくされた道を通るが、そこの不潔なことと荒廃したありさまは、とうてい考えられないほどである──完全な窓ガラスなどほとんど見あたらないし、壁はくだけ、入口の戸柱や窓枠はこわれてがたがたになり、ドアは古板をよせ集めてうちつけてあるか、あるいはまったくつけてない──ここのこの泥棒街では、盗むべきものはなにもないから、ドアの必要さえないのである。汚物と塵埃の山があたりいちめんにあり、またドアのまえにぶちまけられたきたいな液体は寄り集まって水たまりとなり、鼻もちならない悪臭を発散している。ここには、貧民のなかで最も貧しい者、すなわち最も少ない賃金しか支払われない労働者が、泥棒、詐欺師および売春の犠牲者といっしょに入り混じって住んでいる」。

 ここにいわれる「囲い地(Court)」とは建物と建物に囲まれた街路ブロックの中部のことで、日本の裏店に相当する。こうした囲い地は、「そこに住んでいる人たちは、便所のまわりに腐敗した大小便の浮いているよどんんだ水たまりを通らなければ、この囲い地にはいることも出ることもできない」ようなところが多く、通風も、日照も、また人目から隠れているので治安も、すべてが劣悪であった。

 囲い地が、都市計画上の建物配置の劣悪さの産物であるのと並んで、建築計画上の劣悪さの代表的なものとして、棟割り長屋の形式の住居(Back-to-back house)があった。
 再びエンゲルスの記述を引こう。
「ノッティンガムには、ぜんぶで1万1000戸の家屋があり、そのうち7000ないし8000戸は、たがいに背壁を境にして建てられている。そこで、吹き抜けの通風は不可能になっている。そのうえ、たいていは数戸に一つの共同便所しかない」。

 こうした劣悪な住環境の改善のために、どのような手段がとられたのか。その対応の中には、いくつかの興味ある方法と実例が見られる。

 最初が救貧法(Poor Act)であった。1834年にエドウィン・チャドウィック(Sir Edwin Chadwick 1800-1890)による救貧法レポートが提出され、ここに16~17世紀に生み出された救貧法に替わる新しい救貧法が成立する。これは貧民を救済し、やる気を起こさせるために、救貧院(Work House)に収容する、という内容を含んでいた。そこに収容された人々がやる気を起こすためには、そこが世間一般より居心地の良いものであっては効果が上がらぬ、という考えが支配したために、人々の愛大には救貧院に収容されることは、貧困という罪悪によって刑務所に収監されるのと同義と映った。たちまちにして、救貧院に入るべき「資格」を備えた人々はそのことを隠すようになり、資格者の数は激減し、時の指導者たちは救貧法が貧民の数を減らすことに目覚ましい効果を上げたのに満足してしまった。

 続いて行われたのが、通路部分を切り詰め、部屋数と設備を最小限に抑えた間取りを持つ、いくつかのモデル住宅の建設である。初めのうち、こうした住宅建設事業は、利益を期待できる投資対象と考えられていた。しかし、いくら切り詰めた建築を建てようとも、良心的に住宅を建設する事業は、その頃横行していたジェリー・ビルダーと呼ばれる建て売り安普請業者に太刀打ちできるほど、割の良い仕事でないことが判明してきた。

 結局、こうした住宅改善事業は慈悲的な財団──例えばアメリカで財をなした人物が英国で住宅建設を行ったピーボディ財団(Peabody Trust)などによるか、公共事業となる以外、成立し難いことがわかった。

 初めに述べたアルバート住宅は、ヴィクトリア女王の夫君アルバート公(Albert, Prince of Saxe-Coburg-Gotha 1819-1861)が総裁となった「労働者階級の状況改善協会(Society for Improving the Condition of the Labouring Classes, Labourer's Friend Society)」によって建設されたモデル住宅だったのである。

 第一次世界大戦(1914-1918)で敗戦国となったドイツでも、労働者の住環境の改善が求められていた。戦後の賠償金の支払いを自国の工業製品が担っていたドイツでは、その利潤追求ため労働者は劣悪な環境下での労働が強いられ、ベルリン(Berlin)の労働者住宅は監獄のようであったと言われていた。ベルリンの住宅供給公社ゲハーク(GEHAG)に就職した建築家ブルーノ・タウト(Bruno Julius Florian Taut 1880-1938)は、主任建築家として労働者の健康を考慮した集合住宅に注力し、1924年から1931年の8年間で「ブリッツの集合住宅(1925 Hufeisensiedlung Britz)」を始め、12000件もの住宅建築に関わった。エベネザー・ハワード卿(Sir Ebenezer Howard 1850-1928)と著書「明日の田園都市(1898 Garden Cities of To-morrow)」の影響の下、彼が手掛けた住宅は、現代の集合住宅の原型をつくりあげたと言っていい。

住まいの原型

 スラムの改善、労働者階級の住宅改良の事業が生み出したモデル住宅は、極限的な間取りを求めていくことによって、一種の住まいの原型に近づいていった。

 ところが、こうした社会事業としての建築活動とは別に、きわめて思弁的に建築の原型を追求する建築家たちが存在していた。ロンドンの万国博覧会よりも100年近く前、マルク・アントワーヌ・ロジェ(Marc-Antoine Laugier 1713-1769)というフランスの聖職者が「建築試論(Essai sur l'architecture)」という一冊の本を著した。

 ロジェの「建築試論」(1755年に第二版が出版された)の扉絵には不思議な場面が描かれている。打ち崩れた古代建築の廃墟が右手前に見える。コリント式の柱頭、フルーティング(溝彫り)を施された柱身の一部。繰形(飾りの縁取り)が地面に折り重なっている。そのエンタブレチュアに左肘を寄せかけて、ひとりの女神が腰掛けている。彼女の左手にはディヴァイダーと直角定規を持っており、右手は何者かを指し示している。この女神は異教のミネルヴァの女神であろうか。ともあれ、女神の指し示す方には4本の樹木が葉を茂らせている。プットー(童児)がひとり、頭の上に火を灯した姿でやはりこの光景を眺めている。その火は、物事の始原の象徴である。女神が示しているものは、ただの樹木ではない。4本の樹木の枝の分かれ際には横材が架け渡され、それぞれ梁と桁とを形づくっている。さらに桁の上には、何本もの斜材が立ち上がり、合掌を形成し棟木を支えている。この不思議な構造物こそ、ロジエがイメージしたもっとも根源的な建築の姿、「高貴な単純さ」を備えた建築なのであった。4本の柱の役目をしている4本の樹木は、豊かに葉を茂らせているし、合掌を形成している材料もまだ生きている木の枝のように葉をつけているらしく見える。この不思議な絵を前にして、私たちはこれが自然の産物なのか、それとも原始的な私たちの祖先の作品なのか、はっきりと見極めることができない。

 ロジェが示した建築の原型のイメージは「始原の小屋(Primitive hut)」と呼ばれることになる。それは柱と梁と、そして屋根を支える小屋組だけからなる切妻の小屋であった。ロジェは、建築から後世の夾雑物をすべて取り除いて、それを単純な原型にまで昇華させることを望んだ。壁、窓、扉はすべて後の世の産物である。残るべきものは柱と、柱が支えるエンタブレチュアと小屋組しかない。ある意味では、彼は柱と梁とスラブ(床板)から構成される現在の鉄骨構造を予言していた人物とさえ言えよう。事実、彼を「最初の近代建築思想家」と評する建築史家もいるほどである。

 近代建築家たちは、スラムの改良といった社会意識を離れて、自分自身の精神の問題としても、建築の原型を探り出し、そこから自分たちの建築をつくりあげたいと思った。ロジェは、そうした近代建築の祖となったのである。

 1914年に、ル・コルビュジエ(Le Corbusier, Charles-Édouard Jeanneret-Gris 1887-1965)は「ドミノ(Dom-ino)」と呼ぶ建築のモデルを提案した。これは柱と床板と階段だけからできた、建築の原型である。この後、1920年に2階分の高さをもった箱ともいうべき「シトローアン住居(Citrohan)」というもうひとつの原型を提示した。彼はここで、すべて原型から出発させて住宅を、そして建築を構想しようとしたのである。そこに近代建築の精神を見るべきだろう。それはすべてを過去の歴史や様式に頼ることなく構築し、建築をつくろうとする精神である。この「ゼロからの出発」が近代建築を支えた。多少理屈っぽくいえば「自己の意識によって世界を把握し、そのようにして意識的に把握された世界に意味を認める」という精神である。

 ル・コルビュジエは、1925年に開かれた「装飾美術・工業美術国際博覧会(Exposition Internationale des Arts Décoratifs et Industriels Modernes, アールデコ展)」に「エスプリ・ヌーヴォー館(Pavillon de l'Esprit Nouveau)」というパヴィリオンを設計した。これは彼の住宅の原型を提示したもので、建設されたのは一戸だけだが、本当は「アルバート住宅」同様に、縦横に積み重ねられることによって集合住宅となるべきものであった。

 そして1926年には、自己の建築のイメージをまとめて、「近代建築の五原則(Les 5 points d'une architecture nouvelle, Le Corbusier's Five Points of Architectur)」と呼ばれる考えを発表した。その五原則とは、ピロティ(pilots)、屋上庭園(toit-terrasse, roof gardens)、自由な平面(plan libber, free designing of the ground plan)、連続窓(fenêtre en bandeau, horizontal window)、自由なファサード(façade libber, free design of the façade)である。彼は建築を地表から持ち上げ(ピロティ)、庭を建築の上につくり(屋上庭園)、壁で固く築きあげる伝統的な間取りや壁面を持つ建築を否定し(自由な平面、連続窓)、建築の表情を自由にした(自由なファサード)のであった。

 ここにはドミノによって示された建築、すなわち柱と床板で構成される建築の原型が出発点に据えられていた。

 彼の住宅作品、例えば1928年から31年にかけてパリ郊外のポワシー(Poissy)に建てられた「サヴォア邸(Villa Savoye)」には、彼の理念と美意識とが、類まれな美しさで実現している。そこには彼の意図はともあれ、芸術的な香気に満ちた作品がある。
 彼自身は、実は美そのものを第一の価値とはしたがらなかった。「住宅は住むための機械(Une maison est une machine à habiter)」(1923 「建築をめざして, Vers une architecture, Towards an Architecture」) というのが彼の唱えた建築観であった。そこには歴史的な装飾や様式に縛られた建築を否定し、合理主義に基づいた建築を良しとする主張が込められていたのである。

都市に住む

 近代建築の出発点であった住宅の二つの源流、スラム改善や住宅改良運動の中から生まれたモデル住宅の試みと、近代的建築の理念的な原型、「始原の小屋」を発想の出発点とする住宅像の探求は、やがて都市の住居に対する新しい提案の中に合流していく。

 近代社会が生み出した空間が、独立した専用住居というものであることを、ここえ考えておく必要がある。

 近代以前の社会では、住居は実は住まいだけでなく、生産や管理の機能をも含んだ複合的なものだった。例えば農家は住宅であると同時に農作物のためのスペースを住宅内に持っていたし、商人は店の上に住み、職人は家に作業場を持つというのが、ごく自然な生活の営みだった。領主の館や宮殿も、生活の空間はその一部だけで、大集会場、政庁、そしてホテルの機能をもその中に含むのが普通だ。つまり、住まいだけからなる独立専用住居という建築の形態は、近代社会の産物だと考えていいのである。
 そうした独立専用住居が成立した要因は、産業革命に求められる。産業革命は工業化された社会をつくりだし、工場やオフィスなどの生産施設を分離独立させ、その結果、職住の分離した現在の私たちが送っている生活空間のスタイルが生まれたのである。その時に、生活のために独立する建築が、専用住居だった。近代の社会は、それまで住居の中にさまざまに同居していた複合的な機能を空間的に分離独立させ、結果として住宅を純化したのだ。

 近代建築において、独立住宅は自分たちの出生の基盤と言っていい。フランク・ロイド・ライトは、そうした新しい社会の、新しい独立住宅(プレイリーハウス)を創出することによって建築家となったのであり、ル・コルビュジエがドミノという建築の原型を提出したのも、その根本には独立専用住居の原型を見出そうとする精神があった。
 近代の建築空間の原型は、専用住居の空間とオフィスの空間であり、それが工業化された社会、職住分離した社会の、住と職の空間をそれぞれ示していると考えられるのである。

 住宅の原型を現実の都市の中に実現する動きは、スラムの改良とは別の流れとして、理想の住宅像の展示という試みを生む。1927年にドイツのシュトゥットガルト(Stuttgart)近郊に建設された「ヴァイセンホフ・ジードルンク(Weissenhofsiedlung)」と呼ばれる実験住宅はそうした試みの代表例だ。これはドイツ工作連盟(Deutscher Werkbund)が第2回の建築展示会として企画したもので、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエ、ヴァルター・グロピウス、ペーター・ベーレンス(Peter Behrens 1868-1940)ら、当時近代建築に向かって邁進していた建築家たちが一棟、あるいは二棟ずつ住宅を設計して建設した。ベルリンの集合住宅開発で知られるブルーノ・タウトも一棟を手がけている。

 ここには、近代建築が独立専用住居という建物形式と分かちがたく結びつきながら実験を繰り返していった姿がはっきりと現れている。独立専用住居だからこそ、建築の表現の中に新しい社会の構造、職住分離した工業化社会のイメージを込めることのできる、もっとも象徴的なテーマだったのである。当時は白く四角い住宅群を受け入れられない人々も多く、新聞紙上ではドイツのエルサレムと揶揄されたり、あまりにそっけなくモダンな内装に、ここで生活するためには想像力が必要だという批判もあった。

 しかし、新しい時代の、都市の新しい生活者、労働階級と中産階級の住まいこそ、こうした新しい建築だと考えたのが近代建築家たちだった。新しい建築を通じて新しい社会を表現し、さらには建築を通じて社会を変えていこうとする理想に燃えていたので、住宅もそうした新しい社会の建築の原型となるべきものだったのである。
 わが国の戦後の建築の中にも、そうした大きな理想を秘めた作品が住宅の形をとって現れているのを見ることができる。

 1956年に吉阪隆正(1917-1980)が設計した「ヴィラ・クゥクゥ」がつくられ、それまでの日本の住宅にはほとんど見出すことのできなかった壁による住居のイメージが提示された。これはル・コルビュジエのシトローアン住居を造形的に変形し、空間に変化を与えたものとも考えられる。
 1958年には菊竹清訓(1928-2011)によって「スカイハウス」がつくられる。この住居はピロティによって住居を持ち上げ、明快な空間をつくると同時に、新しい核家族の生活を造形として表現したものでもあった。

 そして1961年には、篠原一男(1925-2006)によって「から傘の家」が設計される。この住宅は大きな屋根を放射状の垂木が支える木造住宅で、日本の建築の原型を思弁的につくりあげた作品ともいえる。日本の建築と近代住居とのイメージとが、この時期になると一致点を見出すのである。こうした戦後の近代建築と住宅建築との二人三脚の発展は、1967年に東孝光(1933-2015)が自邸として「塔の家」を建てた時に、新しい局面を迎える。この住宅は、大都市の地価の上昇の中で、極小の敷地に親子三人が住むための建築の宣言であった。ここには、建築の原型としての住宅を提言することによって、新しい社会の建築像を示すという建築家の理想主義が、現実の都市の膨張の過程でそのリアリティを失い、新しい住宅像(都市環境の結果としての住宅)に向かって方向転換したことが見てとれる。
 住宅は、都市像を指し示す原型から、都市を映し出す鏡へ、微妙だが大きく変化を遂げていくのである。

家族団欒の発見

 大正期の日本では、さまざまな住宅近代化の運動が行われていた。西村伊作(1884-1963)も住まいの課題に取り組んだひとりだった。

 彼は22歳の時、舶来の住宅雑誌を参考に、最初の自邸を手掛けて以来、「文化学院校舎(1921)」を始め200を超える建築設計に関わったが、建築家は生業ではない。多くの著作があるが文筆家でもないし教育者でもない。西村は、アカデミズムや人間不在の国家主義に呑み込まれることを潔しとせず、生涯を自由人、Free thinkerとして近代から現代の日本を自然体で生きた人物だった。

 時に「建築家」となって住宅を手掛けた西村は、その率直さゆえに、多くの日本人の住まいに影響を与えた。彼は、家を暮らしの器ととらえ、封建的な間取りや権威主義を排し、「家族だんらん」の家を提唱した啓蒙家でもあった。その体現として、1914年に竣工した彼と家族のための理想の住まい「旧西村家住宅(現・西村記念館)」は、今もほぼ当時のまま保存されている。

 旧西村家の大きな特長は、家族のだんらんの場があることだ。接客本位の家から、家族本位の間取りへ。居間にはイングルヌック(Inglenook)と呼ばれる、英国の住宅に見られる暖炉脇の小空間が設けられ、the firesideを体現したプランになっている。ちなみにthe firesideは、炉端の意味から転じて「家庭」や「一家だんらん」に和訳された言葉だ。庭が見える南側のスペースは、接客用ではなく、家族のための居間や食堂に充てられ、テーブルと安楽椅子を中央に据えた居間は、修道院内の談話室を指す「パーラー(Parlour, Parloir)」という室名で呼ばれた。家族の語らいの場として位置づけられた空間であり、ここが西村家の中心でもあった。

 こうした西村家の間取りがどれほど先進的であったのか。何より、富国強兵の旗印の下、国家優先の前に個人の生活は軽んじられ「男子は衣食のことにかかわるべからず」とされていた時代である。当時は「家庭」という言葉も、まだ新鮮な新語だった。中国伝来の「家庭」という言葉は既に使われていたが、それは単に「家の内」の意味にすぎなかった。家庭が「Home」の訳語に採用されたのは1890年代で、ホームの意味を帯びた「家庭」は、明治末期には流行語になり、雑誌名にも多く採用されることになる。ちなみにビショップ (Henry Rowley Bishop 1786-1855)の名曲「Home! Sweet Home!」は、1889年に里見義(1824-1886)によって「埴生の宿」と訳され、当時は「楽しき我が家」という訳題はまだなかった。

 「だんらん」という言葉はどうだろう。1907年出版の「子供の躾方 一名・育児憲法」(笹野豊美著)には、「一家團欒」の項目に「夕食の時を一定すべし」として「丁度今一家族の人々が大きなチャブ薹を圍んで其の日の出來事を話し合って居る一家團欒の有様であります。何と平和の風が颯々と吹いて居る様ではありませんか。」と書かれている。この時代のだんらんとは、家族が「ちゃぶ台」を丸く囲む場だった。

 ちゃぶ台は、思想家・編集者の堺利彦(1871-1933)が考案したものとされている。堺はウィリアム・モリスの「理想郷(ユートピア便り)」を、日本で最初に紹介した人物であり、西村伊作は20歳の時、堺が編集した「平民文庫」を、自転車で行商していたことがあった。新宮から京都への旅商いの途中に売った本には、後に田園都市構想や都市計画に多大な影響を与えた、エドワード・ベラミ(Edward Bellamy 1850-1898)の小説「顧みれば(1888 Looking Backward)」の抄訳「百年後の新社会」(堺訳)も含まれていた。

 西村伊作が新居につくりあげた「だんらん」の場は、堺利彦考案のちゃぶ台ではなく、パーラーとイングルヌックだった。この大きな飛躍には、洋雑誌の影響があったようだ。当時、西村は「アメリカの建築の本、雑誌をたくさん取った。なぜならば住宅の建築はアメリカが最も進歩している。」と自伝「我に益あり(1960)」に記している。同時に「しかし私は建築の外観様式は英国のいなか家のようなものを好んだ。」とあり、自邸にも、洋の東西を問わず、民家の持つ大らかな表現や、土着の住宅に培われた地域性も、こだわりなく採り入れている。

 ル・コルビュジエやライトと同時代を生きた西村伊作は、抽象に流れることなく、暮らしの理想を風船のように膨らませて、その形を「住宅」に写してきた。暮らしから住まいを発想する考え方では、暮らしの基本となる生活思想やライフスタイル、そして「理想」が出発点となる。外国人でなくても、モダニズムに頼らなくても、理想に怯まず、自身のライフスタイルを持てば、封建的な生活から解放され、家族が楽しく集う新生活が営めることを、西村は紀伊半島の新宮で実践して見せた。



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