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6. 建築家の変身 [デザイン/建築]



万国博という思想

 かつて建築は芸術であり、建築家は芸術家だった。
 建築家は画家や彫刻家と並んで、美術アカデミーに会員として連なることを最高の名誉と考えていた。1671年にはフランスに建築アカデミーが設立され、ヨーロッパの他の諸国でも美術アカデミーに建築家が会員として並んだ。1768年には英国でも王立美術院(Royal Academy of Arts, RA)がつくられている。建築家は、芸術家を目指して修行を積み、作品を設計していた。

 芸術に関わる建築教育の場としては、フランスのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)の名が有名である。ここでの教育は、基本的にローマ大賞(Prix de Rome)を軸にしていたといっていい。建築部門では1720年から毎年1名の学生がローマ(Rome)に留学できる制度が確立していた。ローマ大賞はその栄誉のための選考という権威を19世紀には担っていたのである。エコール・デ・ボザールは組織的には美術アカデミーからの独立を保っていたが、1819年から1968年までに連綿と続いたボザールの栄光時代にあって、ローマ大賞の選考だけは美術アカデミーが行っていたのである。ボザールの教育は、年に一度のローマ大賞授賞のための巨大な予備校であったと称せるほどである。

 ローマ大賞を得ると、その学生はローマにあるフランス・アカデミー(Villa Médicis, Académie de France à Rome)に派遣される。ローマへの留学はそれ自体貴重な体験であったし、国費で古代の建築や近世の建築の研究に没頭できることは、何にも勝る魅力であった。しかも、帰国後は有力な建築家となる道が洋々と開けていた。ここに見れれる考え方は、まさしく建築を芸術と捉えたものである。

 芸術は資格ではない。唯一人の天才が現れれば、何百人の凡才が集まったとしても抗せない。教育制度も、すべての生徒に一応の水準の技能を与えることを主眼とするのではなく、最高の才能を見出すために、組み立てられている。すべてのカリキュラムは、職能教育ではなく、芸術的才能の練磨のためにあった。

 しかしながら近代社会では、才能だけを武器とする芸術家よりも、国家的な資格試験などを受けた、高級専門技術者としての建築家のほうを信頼するようになる。1806年にはロンドン建築協会が、1831年には建築協会という組織がつくられ、この両者が1834年に脱退して英国建築家協会となり、この団体が「王立」の称号を得て、王立英国建築家協会(Royal Institute of British Architects, RIBA)へと発展した。そして1862年には、建築家の技能を社会に公認させるための任意資格試験(Voluntary Architectural Examination)が実施される。

 社会の大勢は、建築家の造形的ひらめきを探すことよりも、登録され資格を公認された建築家を重視する方向に向かっていった。建築家たちは国際建築家会議(International Congress of Architects)を組織し、1900年にはパリで、1904年にはマドリッド(Madrid)で、1906年にはロンドン、1908年にはウィーン(Wien)で、1911年にはローマで大会を開いた。そして1911年の会議では、すべての国で建築家の登録を法律的に義務付けるように、との決議がなされた。

 建築家の基盤が芸術家としての権威のみによっては支え切れなくなっていった時に、建築家たちは、それではどのような造形を自己の拠りどころとしたのであろうか。

 19世紀に産業革命が花開き、20世紀になってそれが生活の造形のすみずみにまで変化を及ぼして近代革命が成就したとする基本的な理解にまどわされ過ぎると、芸術家としての建築家が高級専門職として立つようになった時に、その変化に並行してすぐに近代的造形が輩出し定着していったと考えがちである。しかしながら、実際はそのようなものではなかった。高級専門職として立つ建築家は、社会の要請に何よりも誠実に対応すべき存在であって、本質的に現状追認型の保守的倫理観を身上とする。

 建築は必要以上にアナクロニズムで華美であってはならないが、危険なまでに珍奇な新主張を込めたものであってもならない。建築の造形は客観的に認められるもの、安心して用いられるもの、あまりに個性的で特殊過ぎないもの、つまりは非人称的な安定感のあるものに落ち着く。20世紀初頭の大建築を覆ったものはフリー・クラシック、ネオ・バロック、第二帝政様式、エドワード朝バロックなどと呼ばれる、大ぶりの造形を示す古典主義様式であった。1930年代頃までの大きな公共建築、大事務所建築などは、ほとんどこの様式によっている。

 たしかに歴史様式を脱した近代的造形の建物がなかったわけではない。だが、そうした新しい建築が目を引くのは、その周囲に無数の様式建築が建てられていたからだ。

 もっとも人々の意に迎合しなければならないのは商業建築である。その近代的大型化の産物であるデパート建築は20世紀初頭に数多く建てられる。ロンドンにその例を見ると1901~5年に建てられた「ハロッズ(Harrods)」は赫々たる装飾的な大型テラコッタタイルで身を装っているし、1908~12年に建てられた「ホワイトリーズ(Whiteleys)」や同じ年につくられた「セルフリッジズ (Selfridges)」 は、ともに大オーダー(円柱の構成)を用いた近代風のバロック建築である。1907~9年にヨゼフ・マリア・オルブリッヒ(Joseph Maria Olbrich 1867-1908)がデュッセルドルフ(Düsseldorf)に建てた「ティーツ百貨店(Leonhard Tietz)」も、方立て(窓の縦桟)や柱の扱い方に近代建築の萌芽が見られるものの、大きな屋根に屋根窓が並びその下の壁面には巨大なレリーフ装飾が施されている。

 こうした精神が最初に現れたのが、万国博覧会である。万国博覧会は1851年にロンドン(The Great Exhibition of the Works of Industry of all Nations , The Great Exhibition)で開かれて以来、1853年ニューヨーク博、1855年パリ博、1862年ロンドン博、1867年パリ博、1873年ウィーン博、1876年フィラデルフィア博、1878年パリ博、1889年パリ博、1893年シカゴ博、1900年パリ博と、19世紀を通じて盛んに開催される。

 そこには世界の物産が展示されており、世界の進歩が物質的な形で集結している。ここに見られるものは、進歩を目に見える形で、言い換えれば世俗的な形で示そうとする思想であり、一種の客観主義であった。

 建築家を芸術家という難しい概念から高級専門職という分かりやすい姿に変えたのと同じ力が働いて、世界を宗教といった難しい概念で説明するのではなく、物質の姿で世俗的に捉えようとしたのが万国博覧会の思想であった。

 そこには、建築家の性格の変化の場合と同じように、進歩的な考え方はあっても、前衛的な考え方はなかった。万国博覧会が技術的に新しい試みを数多く産んでも、それが世界を変えていこうとする前衛運動に結びついて近代建築運動になるためには、少し異なった発想法と結び合う必要があった。

アーツ・アンド・クラフツ運動からバウハウスへ

 アーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts Movement)とは、1889年英国で第一回展示会を行ったアーツ・アンド・クラフツ展示会協会に集結した多くの工芸作家や工房たちの活動を総称した呼び名である。この運動の理論的な支柱は、ゴシック様式を理想としたジョン・ラスキン(John Ruskin 1819-1900)、その弟子であるウィリアム・モリス(William Morris 1834-1896)がいた。

 アーツ・アンド・クラフツ運動は芸術作品をつくるのではなく、かといって万国博覧会の思想に見られるような世俗的物質主義をとるのでもなく、工芸品がもっている物と人との間の密接な関係を保ち続けることを目指した。それを可能にするものとして、彼らは手工業を主張した。これによって、もののつくり手と、品物と、それを使う人々との間に密接な関係が保てると考えたのである。その際にはゴシック様式を生んだ中世の社会が理想とされた。

 アーツ・アンド・クラフツ運動は、その運動を英国で調査したヘルマン・ムテジウス(Adam Gottlieb Hermann Muthesius 1861-1927)によって、ドイツに移植され、1907年にドイツ工作連盟という運動に発展する。ドイツ大使館付商務補佐官としてイギリスの建築調査を終えて1903年に帰国したムテジウスは、通産大臣として工芸と産業を結びつけることにより、国の輸出力を強化する必要性を悟った。つまり、ドイツ工作連盟はアーツ・アンド・クラフツ運動の中世主義的理想を単純に受け継いだのではなかった。ドイツ工作連盟がアーツ・アンド・クラフツ運動から継承したものは、社会機構と直結した営為として芸術やデザインの活動を見るという態度であり、芸術やデザインの団体は単なる同業者の集まりではなく、主義主張の実現に向かって志を同じくする者が結束する運動体であるという姿勢であった。ドイツ工作連盟のあり方は、対社会の問題を考える時にも職能団体であるよりも、イデオロギーを持った運動体であった。こうした存在のあり方自体がアーツ・アンド・クラフツ運動の遺産なのであり、それは重要な近代性であったと言える。

 この後、1919年に、バウハウス(Bauhaus)という国立学校がヴァイマル(Weimar)に開校する。
 バウハウスの教育理念を示す事実として、そこでは過去の歴史を教える歴史の授業がなかったことがしばしば指摘される。ここに、近代精神の世界把握がよく現れているように思われるのである。歴史に基づく教育、過去の継承と洗練という教育は、芸術教育には必須のものであるが、新しい運動体としての教育には不要である、という判断がそこに働いていた。

 素材から発し、抽象的構成に進み、その総合としての各造形ジャンルを生み出すというバウハウスの教えは、静的な教育カリキュラムとして捉えただけでは何も生み出さない。ここでの教育は、学生たちがいかにこの骨格に肉付けを行い、自己の主張を見出していくか否かに、すべてがかかっているからである。バウハウスの流転の歴史は、学校の歴史というよりは運動の歴史なのである。運動は制度が確立するとともにその力を鈍化させる場合が多い。バウハウスの歴史は、本質的に流動的な運動体の姿を示している。ここで近代芸術運動は、制度化されることを拒み続けつつ運動体として実体を持ったのである。

 バウハウスに学んだ者の中からは、マルセル・ブロイヤー(Marcel Lajos Breuer 1902-1981)やアルフレート・アルント(Alfred Arndt 1898-1976)など、教授に加わる者も現れたが、結局のところそれは学生のための教育であるよりも、教師(マイスター Meister)としてそこに集まった芸術家たちにとっての運動であった。ギルド組織を模した教授団のあり方は、芸術教育(ボザール)に対するアンチテーゼを提出するものであったし、一定の水準に学生を訓練する職能教育とも異なっていた。ここには、イデオローグとしての建築家の姿が見てとれる。

近代建築国際会議CIAM

 イデオローグとしての建築家のあり方は、最終的にはCIAM(近代建築国際会議, Congrès International d'Architecture Moderne)に結実する。CIAMは1928年にスイスの「ラ・サラ城(Château de La Sarraz)」でエレーヌ・ド・マンドロ夫人(Hélène de Mandrot 1867-1948)の下に集まった建築家たちによって結成される。ジークフリート・ギーディオン(Sigfried Giedion 1888-1968)やル・コルビュジエらが中心になって、従来のアカデミーから離れた、全体的な建築を目指すという方向性が打ち出された。6月28日に出された宣言は次のような言葉が見出される。

 「われわれの建築作品は、現在のみを起源とするべきである」
 「われわれがここに集まった目的は、現存するさまざまな要素の調和──現代に不可欠な調和──を、建築をその本来の場、即ち経済及び社会の場に引き戻すことにより、獲得することである。従って建築は不毛のアカデミーや、古くさい様式の影響から解放されるべきである」
 「最も効果的な作品は合理化と規格化から生まれる」

 これらの言葉の中には、20世紀の建築運動が目指してきた要素のすべてが含まれていることに気づく。ドイツ工作連盟での議論、バウハウスの歴史観、アカデミー教育からの離反、産業革命後の近代社会に対する理解、などである。

 しかも、CIAMの運動は、国際的な運動として展開することをその当初から主目的としていた。各国の歴史的伝統に縛られぬ建築を目指す動きとして、当然であったが、近代建築そのものの本質を彼らがどう捉えたかを同時にそれは示している。

 CIAMの建築観は普遍的・合理的な建築を理想とするものであり、それが機械をモデルとした建築観に結晶する。1911年に英国の建築家ウィリアム・リチャード・レサビー(William Richard Lethaby 1857-1931)はゴシックの大聖堂と汽船とを「どちらも部分を除々に改良していくことによって同じようにデザインされてきた」ものだと述べて、建築と汽船との類似を指摘した。1924年にル・コルビュジエは著書「建築をめざして」の中に「住むための機械」としての住宅のイメージを述べた。これらの言葉には、手仕事ではなく、機械こそ時代の象徴だとする洞察が込められていた。

 それでは機械とはどのような性格を持っているのであろうか。機械には三つの大きな特徴がある。

 ①目的を持つ、②部品から組み立てられる、③普遍的に作動する。

 機械をモデルとする建築が、機能を目に見える形で造形しようとし、建物の各部をはっきり分かれた要素としてまとめ、世界のすべての地域に普遍的に建てられる国際様式(International Style) となることを目指したことは、機械の持つ三つの特性をそのまま反映しているかのようである。

 CIAMは近代社会における建築のあり方を見抜いた帰結として、都市に対するイメージを追い求める。都市像の追究、建築相互の結びつきの追究こそ、CIAMの一貫したモティーフであった。それが結実するのは、CIAMの第4回大会においてまとめられた「アテネ憲章」によってである。ここにはCIAMの、そして近代建築の都市把握がもっとも鮮明に現れている(「アテネ憲章」の中では、住居、余暇、勤労、交通、歴史的遺産の五項目に分解して都市が考察される)。
 
 CIAMの大会は、第6回までは都市要素の個別的検討をそのテーマとするが、第6回以降は、各要素間をまとめあげる提案、つなぎの要素の模索に費やされることになる。そしてその限界性が表面に現れた1956年の第10回大会をもって、CIAMはその歴史を閉じる。

 CIAMは建築や都市のイメージを追求する国際的な場であると同時に、建築家という存在を世界にアピールするスポークスマンとしての役割も果たしてきた。そこに浮かび上がるアーキテクト像は、近代建築を推進するイデオローグとしての建築家であったが、それによって建築家の世界が拡大されたことの功績は大きい。


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