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4. 超高層への道 [デザイン/建築]


機械装置エレベータ

 紀元前1世紀のローマ人建築家ウィトルウィウス(Marcus Vitruvius Pollio c. 80–70 BC, - c. 15 BC)の「建築論(De architectura)」によれば、エレベータの原型というべき昇降機は紀元前に既に存在していたという。こうした古代の昇降機の動力は人力、畜力、水力などで動いていた。

 エレベータが建物のために実用化されるのは19世紀のこと。それは機械装置であっても、いわゆる生産のための装置ではない。しかも、大型の特殊なタイプを除けば、大半のエレベータはひたすら人間を運ぶための機械、人間のためのサービス機械である。

 しかし、この機械は人間の生活環境を大きく変化させた。エレベータの出現により、それまでは地上10メートル程度だった人間の生活の場が、一挙に100メートルを超えるものに拡大したのである。現代文明は機械力によって支えられているが、目に見えぬ形で、表面で脚光を浴びずに力を振るう機械の本質を、エレベータは見事に示している。エレベータは無言のサービス機械であり、味気なさを人に意識させることもなく、従順な裏方として大きな反発を招くこともなかったが、結局は生活全体のあり方を大きく変えてしまった。

 エレベータを今ある姿にするうえで重要な貢献をしたのは、エリシャ・グレーブス・オーチス(Elisha Graves Otis 1811-1861)である。彼の生涯を辿ることが、エレベータ発明の歴史を解き明かしてくれることになる。

 オーチスはアメリカのハリファックス(Halifax)に生まれ、19歳の年にトロイ(Troy)の町に出て、そこで5年間ほど建築業に携わった。ところが病気になってその仕事を辞め、次に馬車などを製造する仕事を始める。この仕事は割合順調に進んだが、1845年に再び体調を崩しオルバニー(Albany)の町に移った。ここでは寝台製造会社の主任技術者となって3年間働き、念願かなって小さな機械製造所を開くまでになった。そこでは自分の発明でタービン式水車を製造していたが、彼の工場が動力源にしていた川が市の所有になり、またもや彼は仕事を失ってしまう。こうして1851年に工場をたたんだ彼は、かつて勤めていた寝台製造会社にもう一度勤め直すことにした。そして転機がその翌年に訪れる。

 寝台製造会社がヨンカーズ(Yonkers)の町に新工場を建設することになり、オーチスはその工事を担当することになった。工場には、これまでも見られた、スチーム・エンジンでロープを引っ張るタイプの物品昇降用のエレベータが設置されることになっていた。しかし、このままでは危険だと考えたオーチスは、ロープが切れた緊急時にカゴの両側に爪が出てガイドレールの歯に食い込み、自動的に落下を防ぐ装置を考察する。これが近代的エレベータ誕生の契機となった。1852年のことだ。オーチスのエレベータに対して特許が認められたのは1861年1月15日、この年の4月8日、彼は神に召される。

 事業としてのエレベータ製造を受け継いだのは、息子のチャールズ(Charles Rollin Otis 1834-1927)とノートン(Norton Prentiss Otis 1840-1905)の兄弟だった。長兄のチャールズは1835年に生まれ、13歳の時から父の工場で働いていた。15歳の時には、父の働く寝台製造会社の技術者として、既にスチーム・エンジン専門家になっていた。父の歿後、1860年代に増え続けてきたエレベータの注文に応じつつ、その改良を続けた。

 オーチスエレベータの出現以来、エレベータは将来性のある新設備として注目されるようになった。エレベータがあれば、人は高いところにも容易に移動できるのである。同じ頃、建物自体も高層化の技術を徐々に獲得しつつあったから、エレベータは高層建築に不可欠な設備としてその力を振るうことになった。エレベータなしでは、5階建て以上の建物は日常の使用には耐えなかったのである。

 1867年には、パリの博覧会でレオン・エドウ(Félix Léon Edoux 1827-1910)という人物が水力式エレベータを展示する。これはただちに英米の建築に採用されるところとなった。1880年代には、エレベータにとってもうひとつの重大な転機があった。ヴェルナー・フォン・ジーメンズ(Ernst Werner von Siemens 1816-1892)による電力式エレベータの完成だ。この新エネルギーの機械は1889年にニューヨークのビルに採用され実用化した。1890年には、ロンドン南郊のシデナム(Sydenham)に移設されて常設の展示場となっていた、かつての1851年の万国博の会場「水晶宮(The Crystal Palace)」に、この電力式エレベータが採用されて英国への初登場となった。

 日本の電動式エレベータは、1890年に完成した12階建ての「凌雲閣」(設計・ウィリアム・キニンモンド・バートン William Kinninmond Burton 1856-1899)に採用されたものが最初だ。しかしエレベータの知識に乏しい当時の監督官庁に危険と判断され、一般の利用は早々に禁止されてしまう(1914年に再設)。

 この後、国際的には、1890年代のエレベータは自動化を目指して発展を遂げていく。1892年にはボタン操作のエレベータが出現し、1894年になるとこうした簡単な操作によって運転できる、住宅用エレベータがつくられるようになり、1895年にはエスカレータが発明された。完全なフルオートマチックのエレベータが出現するのは1949年のことだ。

スカイスクレイパー時代

 エレベータの出現によって建築は一気に高層化する。アーネスト・フラッグ(Ernest Flagg 1857-1947)の設計によってニューヨークに建てられた「シンガーミシン・ビル(Singer Building)」は、1906年から8年かけて建設された187メートルのビルであったし、1911年から13年にかけて建てられたキャス・ギルバート(Cass Gilbert 1859-1934)設計の「ウールワース・ビル(Woolworth Building)」は約240メートルの高さ、ウィリアム・ヴァン・アレン(William Van Alen 1883-1954)設計の「クライスラー・ビル(1929-32 Chrysler Building)」は246メートルの高さ、そしてシュリーヴ・ラム・アンド・ハーモン(Richmond Harold Shreve 1877-1946, William Frederick Lamb 1893-1952, Arthur Loomis Harmon 1878-1958)設計の「エンパイア・ステート・ビルディング(1930-31 Empire State Building)」は、380メートルにも及ぶ高さを誇っていた。「ウールワース・ビル」には26基のエレベータがあり、「エンパイア・ステート・ビル」には58基ものエレベータが設けられている。こうして、第二次世界大戦前の、いわゆるスカイスクレイパー(超高層ビル)時代が花開いたのであった。

 だが、人間が高さを夢見たのは技術力の完成よりも以前のことであった。バベルの塔の神話を持ち出すまでもなく、人は常に高さに意味を見出し、高さを夢見続けてきたと言えるかもしれない。近代になると、そうした高さへのイメージが建築や都市と結びついて再び浮上してくる。その一つが未来派だ。1909年にイタリアの詩人マリネッティ(Filippo Tommaso Marinetti 1876-1944)がパリのフィガロ (Le Figaro) 紙上に「未来派宣言(Manifesto del futurismo, Futurist Manifesto)」を発表。マリネッティの宣言の下に集まった画家たち、カルラ(Carlo Carra 1881-1966)、バッラ(Giacomo Balla 1871-1958)、ルッソロ(Luigi Russolo 1885-1947)、ボッチョーニ(Umberto Boccioni 1882-1916)、セヴェリーニ(Gino Severini 1883-1966)らは、未来派画家の一団を形成していく。日本では1909年に森鴎外(1862-1922)により「未来主義の宣言十一箇条」として文芸雑誌「スバル」(1909-1913)に紹介された

 未来派の美意識は、マリネッティの次の言葉の中にもっともよく示されている。
 「ひとつの新しい美によってこの世界の光輝がずっと増大したことを我々は宣言する──速度の美しさがそれである。ちょうど地雷探知機は探しているものの爆発音を伴ってこそ美しいように、いくつもの巨大なシリンダーがあるために車体機構の美しさの引き立っているレーシング・カー、あたかも榴霰弾が炸裂しつづけているかのように大きな音を立てる自動車、それはサモトラケのニケよりも美しいものだ。」

 このイメージは、未来派の建築家アントニオ・サンテリア(Antonio Sant'Elia 1888-1916)によって都市のイメージとして描かれた。1913年から14年にかけて彼が描いた未来の大都市は、多くのスカイスクレイパーによって埋められ、高速の自動車道路が何層にもわたって交錯している。

 ここでは、高さとスピードが、あたかも相互に変換可能な要素であるかのように、二つながら都市を支配している。空間を上空に向かって伸ばしていくことは、人間の能力を無限に象徴するものだと夢想されたのである。サンテリアは第一次世界大戦に出征し、ただひとつの建物も残さずに戦死してしまう。ヨーロッパにその後、高さへの夢が現れるのは第一次世界大戦後、1920年代に入ってからのことである。

 ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe 1886-1969)というドイツの建築家が、1921年に鉄とガラスのスカイスクレイパーのイメージを提示する。それは曲面の壁を持つ表現主義的な超高層ビルで、そこには既に現代の社会を支配する空間が用意されていたといっていい。このヴィジョンは、均等に柱の並んだ高層ビルに、ガラスの外壁を外側から皮膚のように覆うもので(カーテンウォール、帳壁, Curtain wall)、この鉄骨の構造とガラスの皮膜によってミースはすべてのオフィス空間は供給されると考えたのである。その空間は何層にも重ねることができ、またどのような大面積にも広がることができると考えられた。この無限に広がりうる空間を彼は、ユニヴァーサル・スペース(Universal space)=普遍的空間と呼んだ。

 ミース・ファン・デル・ローエの唱えた普遍的空間は、20世紀のオフィス空間を支配する空間となっていく。建物の外皮、つまりカーテンウオールの意匠はさまざまにヴァリエーションを生んだし、建物の平面計画もまたさまざまに変化を生じたが、それは結局はユニヴァーサル・スペースの範囲内での変化に過ぎなかったのである。

 サンテリアの描いたイメージからミース・ファン・デル・ローエの描いたイメージの間には、実は千里の径庭が横たわっていた。

 サンテリアの、そしてアメリカで実現されつつあったスカイスクレイパーは、高さが社会の視覚的な象徴として意味を持つ、イメージの塔であった。それは社会の力、未来の力、人間の力を目に見えるかたちで表現しようとするものだったといえるのである。

 その点では、ゴシック様式、1920年代のアールデコ様式、あるいはボザール風(様式建築を教えた美術学校風)と表される古典主義様式などでつくられたニューヨークのスカイスクレイパーも、前衛建築家がイメージする未来派の高層ビルも、時代精神を超高層ビルに込めていくという点では、共通するものを持っていた。つまり、高さは表現としての意味を発していたのである。

 ところがミース・ファン・デル・ローエのイメージは違う。ここでは、高さは表現の手段としては用いられていない。高さそのものが抽象化されているのである。ミース・ファン・デル・ローエに至って、高さは「塔」から「積層された空間」へと意味を変えたのである。

 こうした変化が、過渡的なかたちで現れたのが、1922年に行われた「シカゴ・トリビューン」の社屋設計競技だった。応募案の中にはさまざまな歴史的様式を用いて建物を高さの象徴──「塔」として表現する案と、ヴァルター・グロピウス(Walter Adolph Georg Gropius 1883-1969)やエリエル・サーリネンのように、抽象的に積層された空間としてまとめあげる案が混在していた。コンペでは「塔」としての表現に優れたレイモンド・フッド(Raymond Mathewson Hood 1881-1934)の案が採用された。しかし時代は徐々に積層空間型の高層ビルの方向へ進んでいく。その後のオフィスビルの形態にもっとも大きな影響力を与えたのが、ドイツからアメリカに移住したミース・ファン・デル・ローエだった。

 第二次世界大戦後、必要以上の(と考えられるようになった)象徴性を込めたスカイスクレイパーに替わって、抽象的な四角い箱としての超高層ビルが成立するようになる。SOM設計事務所(Skidmore, Owings & Merrill, SOM)が設計した「リーヴァ・ハウス(1950-52 Lever House)」や、ミース・ファン・デル・ローエ設計の「シーグラム・ビル(1956-58 Seagram Building)」などに代表されるニューヨークの戦後のビルは、戦前の塔のような姿をまとった高さへの夢を払拭した近代のスカイスクレイパーだった。そこには、社会の基本的な空間となったオフィスを、大量に供給するという姿勢があった。

 オフィスの空間は、20世紀の後半になってますますその重要性を増してくる。第二次世界戦後の世界は、こぞってユニヴァーサル・スペースのオフィスを受け入れた。社会全体の構成も、初期の産業革命期のように工場や生産の現場に比重のかかったものから、資本や商業の活動にその重心が移っていき、一般の人々の仕事といえば、デスクワークが中心となっていった。

オフィスビルの新しい表現

 かつて、高さが素朴に夢を表現できた時代があった。しかしながら、抽象的な積層空間型のビルは、どれほど高層であろうとも、それだけで夢を表現できるとは限らなくなってしまった。

 スカイスクレイパーは、かつての表現とは異なった空間表現を必要とするようになったのである。スカイスクレイパーという偶像を「破壊」するものにもっとも影響力のあったミース・ファン・デル・ローエは、かつての偶像に替わった超高層ビルに、新しい表現を与える方法も提示した。「Less is more(少ないほど多い)」という彼の言葉は、近代建築の表現を考えるうえでのキーワードとなった。

 鉄とガラスでつくられる超高層ビルを鉄とガラスの建築として表現するために、彼は最大限の注意を払って建物の構造を目に見えるようにする。鉄骨は火災に遭えばアメのように曲がってしまうので、厳重に耐火被覆を施さなければ超高層ビルには使えない。ところがそうした被覆で隠されてしまったのでは、鉄とガラスのスカイスクレイパーは、外から見た時にどのような構造なのかが、分からなくなってしまう。

 そのため、彼は建物の外装に細い鋼材をわざわざ装飾のように用いて、垂直部材の形を示す。これによって、目に見えなくなってしまった耐火被覆の中の鉄骨を、抽象的に外部に表現するのである。
 近代建築が抽象的な空間を創出するようになり、建築家は抽象性を再び目に見える具体的な造形に表現し直さなければならなくなる。ミース・ファン・デル・ローエは、そうした建築の進路を自ら正確に歩んでいた。

 だが、そうした歩みは1970年代から徐々に変質していく。その変化を見るためにはビルの内側の間取りや空間に対する考え方を見ていく必要がある。

 第二次世界前のスカイスクレイパーは、建物の中心部分に何台ものエレベータを備え、そこに便所や階段室や給湯サービス室なども集中させた、コア・システムと呼ばれる平面計画によって設計されてきた。オフィスの執務空間はそうしたコアの周囲に設けられ、それは外の光景を眺められる窓で終わっていた。

 そうしたコアを中心にしたオフィスビルに対して、このコアを二つに分離して、二つのコアによってサンドイッチされた中間部を自由な執務空間にしようとする平面計画が提唱されるようになる。この考え方は、コアの間の空間の広さを、コア同士の距離のとり方によって自由に変化させられるわけで、それまでのコア周囲に執務空間を張り巡らせて一巡させる考え方よりも、空間の自由度を増すものであった。オフィスの空間は、可能な限り走らが少なく、しかも論理的には無限に広がりうるという、限定性の極小な方向に向かって発展を続けていくのである。

 しかしながら、時代の流れは超高層ビルの中に変化を求めて、大きな吹き抜けを設ける方向に進む。こうした巨大な吹き抜けを内蔵するタイプのビルは、アトリウム建築と呼ばれる。アトリウムとは、古代のローマ住宅に見られる中庭のことである。つまりアトリウム建築とは、大型ビルの内部に中庭的な外部空間を取り込んだものといえるのである。アトリウム建築の先駆としては、ケヴィン・ローチ(Eamonn Kevin Roche 1922-)が設計したアメリカの「フォード財団ビル(Ford Foundation Headquarters)」などがあり、世界の動向もそうした外部空間を取り込んだビルへと向かっていった。

 20世紀の後半に至って、オフィスビルの空間は外部空間を取り込んだものに、言い換えれば都市空間をそのまま内蔵したビルへと向かっていったのである。現在では、オフィスビルの内部にさまざまな商業施設が採り込まれ、外部空間がそのまま内部化された例は数多く見出される。オフィスビルは、20世紀始めのユニヴァーサル・スペースの獲得という課題を達成すると同時に、ビル全体を都市化してしまう方向へと歩みだしているのである。これは、巨大なオフィスビルの中にいれば、ほとんどすべての都市機能を享受できる方向への発展である。

 ビルを都市と化してしまうこと、これが巨大な近代建築の目指す方向だと思われてくるのである。だが、こうした傾向がもたらすものは、結局のところ何なのか。オフィスビルの都市化という方向性は、逆にいえば都市のオフィス化ということにならないであろうか。高さへの夢は、今や姿が見えなくなってしまった空間の積層となって、私たちの頭上を覆いかねない。



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