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8. アール・デコの街 [デザイン/建築]

アール・デコ展

 アール・デコ(Art Déco)とは、1925年にパリで開催された装飾美術・工業美術国際展覧会(アール・デコ展)でもっとも成功を収めた新しい様式のことである。

この博覧会は「アール・デコ」の名の由来となり、同時にアール・デコはこの博覧会の開催年をとって「1925年様式」とも呼ばれることになる。アール・デコ様式は、1966年に「パリ装飾美術博物館(Musée des arts décoratifs de Paris)」で開催された展覧会「Les Années"25"」で再評価され、1980年代初頭にポスト・モダンの建築家や、ミラノのデザイナー集団メンフィス(Memphis)などがアール・デコを引用し、また注目された。それはなぜなのだろうか。アール・デコという、ノスタルジックな様式をもう一度振り返ってみよう。

 装飾美術・工業美術国際博覧会には、長い前史がある。
 この博覧会の起源は、アール・ヌーヴォーの花開いた19世紀末のパリに遡る。1900年にパリで開かれた万国博覧会には、19世紀の最後を飾るに相応しい華麗な装飾芸術作品の出展も見られ、その機運の盛り上がりによって、翌1901年に装飾美術家協会が設立された。これは、純粋芸術に対し、日々の生活に用いられるべき応用芸術の存在を主張するものでもあった。

 応用芸術あるいは装飾美術、美術工芸などと称されるジャンルは、純粋芸術に比べてひとつ格の落ちるものと見なされがちであった。応用芸術の存在を認め、その価値を主張するのは、19世紀後半の英国に起きたアーツ・アンド・クラフツ運動である。アーツ・アンド・クラフツ運動の中心となったウィリアム・モリスやチャールズ・ロバート・アシュビー(Charles Robert Ashbee 1863-1942)らは、生活を豊かにする品々を芸術性豊かにすることこそ、生活の真の向上であり、解放であると信じた。この主張は、ドイツ・オーストリアでは工作連盟(Werkbund)という運動となって20世紀に引き継がれていく。そこでは、積極的に機械生産による品物のデザインを課題に採り上げる態度が見られた。

 フランスの装飾美術家協会も、こうした世界的な機運と無縁のものではなかった。しかもフランスの場合、1903年にサロン・ドートンヌ(Salon d'automne)という新しい民間の芸術展が組織されていた。このサロン・ドートンヌは1904年には写真部門、1905年には音楽部門を設け、1906年にはそれまであった純粋美術と装飾美術の区別を廃止し、すべてを同格に扱うという方針を打ち出した。この方針から、1910年にはドイツの工作連盟の作家たちの作品展がサロン・ドートンヌに招待出品された。この衝撃は大きく、フランスでも、もっと積極的に機械製品のためのデザインを開拓すべきであり、その契機となる国際展の開催が強く求められた。

 装飾美術協会は、それ以前からも一部で望まれていた、装飾美術の国際展開催の要望書を1911年に政府に提出し、政府も1915年の開催に向けて動き始める。しかし、1914年の第一次世界大戦の勃発は、この展覧会の開催予定時期を翌15年から16年に、さらには18年、24年へと次々に遅れさせていった。結局、1925年4月から6カ月間の会期で開催されることが本決まりになった時には、展覧会名は、工業美術を加え装飾美術・工業美術国際展覧会となっていた。パリで開かれる国際博覧会としては、1900年の万国博覧会以来、実に四半世紀ぶりの開催である。

 準備の遅れ、計画の延期の重なりは、博覧会に出品される作品の性格、そこに表現される造形の性格も変えた。博覧会ではあらゆるジャンルの装飾・工業美術が、素材別、ジャンル別に出品されることになった。それは、建築、建築装飾、家具、衣装や装身具、舞台芸術、庭園、美術教育、写真や映画に分類され、この広範囲な出品物の中から、アール・デコと呼ばれる造形が後世に知られるようになるのである。

 この博覧会の性格を知る上で興味深いエピソードを付け加えておく。それはアメリカがこの博覧会には参加していないことだ。この博覧会にはオーストリア、ベルギー、ソビエト連邦を始め、中国、日本に至る諸外国、そしてフランスの21の地方が出品したが、アメリカとドイツは参加していない。かつて工作連盟の作家たちによって大きな衝撃を与えたドイツは、第一次世界大戦の敵国だったため、戦後の博覧会には不参加だったが、アメリカは博覧会の名称(International Exposition of Modern Industrial and Decorative Arts)にあった「Modern(現代)」という言葉を誤解し、自国にある装飾・工業美術は「現代」の概念には当てはまらないと考えて参加を控えたとされている。

実際には、1920年代、30年代のアール・デコの隆盛とアメリカは切り離しては考えられない。二つの世界大戦の狭間、大恐慌にあえぐアメリカに光をともしたのがアール・デコだった。装飾美術・工業美術国際展覧会に出展された、家具作家ジャック=エミール・ルールマン(Émile-Jacques Ruhlmann 1879-1933)のパビリオンが、1926年からアメリカを巡回、都市部でアールデコ人気が沸騰する。世界一の工業力により量産されるアール・デコ風の流線型デザインが市場を席巻し、ノーマン・ベル・ゲディス(Norman Bel Geddes 1893-1958)、ヘンリー・ドレイフュス(Henry Dreyfuss 1904-1972)、レイモンド・ロウイー(Raymond Loewy 1893-1986) などの工業デザイナーの台頭を生んだ。

アール・デコの時代

 アール・デコの時代は、いわゆる両大戦間期で、アール・デコの別称、ジャズモダンという名は、この時期のアメリカの雰囲気をよく伝えている。同じようにアール・デコのことをポワレ様式、シャネル様式と、服飾デザイナーであるポール・ポワレ(Paul Poiret 1879-1944)やココ・シャネル(Coco Chanel 1883-1971)の名で呼ぶことも、大陸における両大戦間の気分を感じさせてくれる。アール・デコの様式の精華が、大西洋航路の客船のインテリアに見られ、日本のアール・デコ装飾も、欧州航路の豪華客船に数多く試みられたことも、束の間の平和な海を感じさせてくれる。多くの船室のインテリアは、後の第二次世界大戦中に船とともに海の藻屑と消え去った。アール・デコは第二次世界大戦によって亡びたという実感が、そこから湧き上がる。

 アール・デコに対するもう一群の別称はパリ25年様式、1925年様式、1925年モードなどであり、これらはいずれもその年の装飾美術・工業美術国際博覧会を意識したものである。博覧会もまた、時代の最先端を示す試みではあっても、束の間の幻影であり、それゆえにこそ冒険の行える場であった。

 両大戦間期という、ヨーロッパの伝統が味わった最後の束の間の休息期、そこに生き、そしてその時代とともに亡んでいった様式がアール・デコなのであろうか。アール・デコは歴史的に考えれば、1920年代から30年代にかけての、短い流行に過ぎない。それは19世紀末のアール・ヌーヴォーのはかなく消えた流行の、姿を変えた再生であり消滅であり、ひとつの時代の気分、生活の束の間のスタイルであったといえるかもしれない。

 しかし、アール・ヌーヴォーとアール・デコの間に流れた30年にも満たない年月の間に、装飾芸術の根本的な性格が一変していたことを見過ごすことはできない。その間に、装飾芸術は一品ずつつくられる芸術品としての性格から、大量に生産され消費される商品としての性格へと、その本質を変化させていった。ジャズモダンもシャネル様式も、消費と商品の時代を象徴する言葉である。

 純粋芸術と応用芸術、あるいは純粋美術と応用美術という区別は、自立した作品である純粋芸術を、何かに付属し、何かの商品価値を高めるための芸術から区別し、引き離すためのものであった。この二つの芸術が対立するもののように意識されるのは、応用芸術や装飾芸術が独立し、力を強めていくからだ。商品としてデザインされたものを人々が購い、それを自分たちの生活の中に持ち込むという形式が20世紀の初頭には定着してくる。

 自動車のマスコット、化粧品、衣服、書物、家具、食器、そして商店やレストラン、都市内の集合住居も、すべて既成品として、レディ・メイドのデザインの品物として登場してくる。アール・デコの本領はこうした分野に発揮された。それは商品化され、人の手から手へと飛び交うデザインなのである。

 アール・ヌーヴォーの装飾は、初めて近代的な都市というものが成立したところに生じた文化であった。19世紀都市の中心部の盛り場は、都市の雑踏そのままである。それまでの、中世的な都市の盛り場が、どれほどの賑わいを示そうとも地縁中心であったのに対して、19世紀に獲得された新しい盛り場の本質は、地縁的しがらみからから解き放たれた都市性にあった。

 こうした盛り場では、人々はどこの誰とも知られず、誰とも知らない人々の間で、都市の文化の時間を過ごす。そこに生まれる都市の文化は一種の匿名性に支えられた人工性の高い文化となり、表面の賑わいとは裏腹に、一種の孤独を漂わせた文化となっていく。19世紀末の都市の文化とは、まさしくそうしたものであり、そこに現れる謎めいた造形上のモティーフの多くは、人工の神話と言えるものだった。

 しかしアール・デコの時代には、都市の盛り場そのものが、商品としての性格をもって浮遊するようになる。そこに満ち溢れる品々は、都市の個性に固定されたものではなく、都市を離れても存在し続ける商品である。商品は買われ、選ばれ、無数の生活の中に浸透していく。自動車は未曾有の速さで人々を移動させ、汽船は未知の規模の空間ぐるみ大海を移動して大陸を結びつける。商品の種類と数量はどんどん拡大していった。

 アール・ヌーヴォーの造形が、果てしなく物の表面を覆いながら広がっていく曲線であったのに対して、アール・デコの造形が硬質で光沢に満ち、屈曲し放射状に広がるのは、この時代に都市内のあらゆる文化が浮遊し、電波のように飛び交い、飛翔し始めたことと無関係ではない。アール・デコの時代に、デザインは地縁性を払拭するのは無論のこと、建物や都市の表面を覆うこともやめ、離脱し始めたのである。流線形、電波イメージとされるジグザグ曲線、反射する光を想起させる光沢……これらはこの時代の造形が離陸し、飛翔するイメージを孕んでいたことを示している。

 建築のデザインも例外ではありえない。ロシア構成主義(Russian Constructivism, Constructivism)の作家たちのデザインは、大地に縛られた重い構築的な建築を否定し、アメリカのスカイスクレイパーはその頂部にさまざまなモティーフの「放射する」イメージを頂き、ル・コルビュジエは文字通り大地から離陸するピロティという概念を提示する。さまざまなイズムに分類されるこの時期の建築は、実は「離陸」という共通のイメージを持っていたのではないか。

 1925年の装飾美術・工業美術国際博覧会には、そうした多様な傾向の建築群が、アール・デコという名の下に集まりえた。建築家の理念、主張はさまざまである。けれども、その造形感覚の内には、共通した離陸への期待、飛翔への決意、放射と拡散への憧憬が見出せないだろうか。

 CIAMに結実し、近代建築の主流を形成していく建築家たちは、商品によって満たされる社会を批判し、一種の社会主義的ユートピアを主張した。しかし、その造形を虚心に眺めるなら、そこには予想外にアール・デコと近しい造形が見出される。しかも、近代建築の理想が達成された第二次世界大戦後には、世界は皮肉にも商品化された近代デザインに満ち満ちたのであった。

コマーシャル表現の再認識

 「パリ1925年様式」と言われても、それは既に90年前のことになってしまった。過去の様式が今私たちに何を与え、何を語るのか。

 アール・デコは、動きの造形である。しかもその動きとは、アール・ヌーヴォーの造形が成長という生物的・生命的な動きを可視化しようとしていたのに対して、メカニックで物理現象的な動きである。

 アール・デコのコスチュームを身にまとった女性の髪の毛の動きやマフラーの流れは、風にそよぐ柳の枝のゆらめきではなく、流線形のオープンカーでドライブする髪の流れだ。アール・デコの造形はエンジンの動き、電波や光線の放射や反射をイメージさせる。それは人間の肉体の速度を超えたスピード感覚である。

 目の眩むばかりのスピード、距離、空間、アール・デコの造形を生み出した人々は、こうしたイメージの曙光を感じ、その予感に打ち震えながら、造形をつくりあげたに違いない。アール・デコのスリリングな輝きは、そうした彼らの内面の鼓動のビートに支えられている。以後、定期的に起こるアール・デコのブームには、彼らの感動の出発点、彼らの発見のはつらつたるポテンシャルへのあこがれも感じられる。

 アール・デコは応用芸術や装飾芸術と言われるものが、近代と対面した時に避けて通ることのできない商品化された造形という課題に、初めて応えたものだった。アール・デコが刺激的なのは、商品化された造形の示す緊張感が、今も失われることなくそこに脈打っているからだ。近代建築史、近代デザイン史を、デザインや建築の理想史、運動史として考えるのではなく、現実の造形が社会に直面してきた軌跡として見直す時、アール・デコの輝きは改めて驚きの対象となる。

 商品あるいはコマーシャルな作品という点では、アーツ・アンド・クラフツ運動→ドイツ工作連盟→バウハウス→CIAMという系譜は十分な成果を上げたとは言えない。社会全体に対して、新しい造形を商品としても成立させようとする闘いの歴史がこの系譜であったが、それはやはり芸術運動として、芸術作品や芸術的イメージをつくりだすことに傾きがちであった。それに対しアール・ヌーヴォー→アール・デコという系譜は、コマーシャルな造形をその出発点に据えた試みの流れだと言える。

 20世紀の初頭の大都市は、きらびやかな大建築で埋められていったが、そこに用いられた様式は、19世紀パリの「オペラ座(1875 Opéra Garnier)」に見られるようなネオ・バロックと呼ばれる様式であり、アール・デコはそうした様式とも共存して大建築に用いられた。アール・デコの造形が持っている影響力の広がり、その影響力の深さ、その持続力は、もう一度私たちに20世紀精神の夢とはどのような世界にまで広がりうるのかを考えさせる。コマーシャルな芸術の重要性が高まる中でアール・デコの再認識が同時進行していたことの意味を、十分に考えておく必要があるだろう。コマーシャルと現代における物離れ、表層化、メディア化という位相は、すべてアール・デコと無縁ではない。

アール・デコの再評価

 アール・デコが再び注目を集めるのは、戦争が終わり、消費と都市の光が蘇った60年代だ。66年にパリ装飾美術博物館で開催された展覧会「Les Années"25"」でアール・デコはデザインとしてようやく評価される。特にファッション業界が、アール・デコ装飾が内包する都市の輝きと退廃に敏感に反応し、世界的なリバイバルのブームを先導した。ところが70年代に入ると、中東紛争によるオイルショックと経済混乱によって、都市の光が失われ、アール・デコはまたも衰退していく。
 そして80年代半ば、禁欲的になりすぎたモダンデザインと、建築の技術至上主義的な表現に対し、一部の建築家たちが物語性に富んだ、どこかアイロニカルなデザインを提案し人々の共感を呼んだ。ポストモダンと呼ばれる代表的な建築家、マイケル・グレイヴスやハンス・ホラインは、アール・デコ風のモチーフを建築に大胆に用いて人々を驚かせた。彼らはフィクションとしての都市文化の象徴をアール・デコに求めたとも言える。エットーレ・ソットサスを中心とするデザインムーブメント「メンフィス」にも、アール・デコの影響が窺えた。だがこの動きも、90年代の不況で失速し、デザインも美術も、80年代の反動とも思えるミニマルブームへと向かっていった。
 こうしてアール・デコの流れを俯瞰すると、都市文化の光と陰、平和と混乱、富と禁欲の、20年周期で復活を繰り返しているのが分かる。





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