SSブログ

9. 非西欧からの発言 [デザイン/建築]



三本の糸

 マカオ(Macau, 澳門)という元植民地を考えてみよう。
 香港(Hong Kong)から船で簡単に渡ることのできるポルトガルの元植民地は、日本からの観光客も多く訪れる風光明媚な小都市である。

 マカオには中国寺院が数多く見られるが、遠いポルトガルの都市を思い起こさせる、南欧風の住宅やホテルも多く建てられている。マカオの観光名所となっている「聖ポール天主堂(the Church of St. Paul, 大三巴牌坊)」の遺跡も、イエズス会の教会の形式を忍ばせるヨーロッパ風の建物だ。
 こうした二つの要素の併存、すなわち中国とヨーロッパの要素が不思議に並び合っているのがマカオの魅力であるが、こういう風景は欧米以外の都市には、どこであれ多かれ少なかれ見出されるものである。

 日本の都市を考えてみても、私たちは普段意識しないが、どの町にも外国人観光客の目に日本的に映る寺院や家並みがあるものだ。

 しかし、そうした町並みにも近代建築は次々に建てられつつある。近代建築は国際様式と呼ばれることがあるように、世界のどこに建てられても、似たような姿をしている。こうした国際様式の建築が世界を制覇していくのは、第二次世界大戦後のことだ。世界の植民地のほとんどは独立を獲得し、それまでの宗主国の建築の伝統に範を求めた洋風建築に替わって、無国籍とも言うべき風情を漂わせた近代建築がそこに建てられていく。

 このような環境の中で、建築家たち、特に非西欧の建築家たちは悩みを感ずるようになる。非西欧の建築家たちは、自分たちの手の中に三本の糸が握らされているのに気づくからである。その三本の糸は、①自分たちの民族の建築の伝統、②近代化の基盤となった西欧の建築形式、③現代の無国籍とも言うべき近代建築、である。この三本の糸をどのように撚り合わせて、これからの建築をつくりあげていくべきなのか。あるいは、この三本の糸のうちの、一本だけが正しい導きの糸であり、その一本を探し出すことが自分たちの使命なのか。

 こうした悩みは、現在多かれ少なかれ、ほとんどの国の建築家が抱いていると言えよう。というのも、無国籍とも言うべき近代建築は今や世界のあらゆる都市に建っており、そうした状況の中で、かえって建築家たちは道に迷い始めているのである。

 かつて、非西欧諸国、特に植民地都市には、本国の建築的な伝統が本国以上に純粋な形で持ち込まれることが多かった。旧植民地都市の旧市街には、今では本国にも失われてしまった古き西欧の香りが残っている。それは、植民地を開発しようとした人々の郷愁の現れである場合もあり、本国を文字通り植民地にまで進出させようとする野心の現れである場合もあった。

 日本の明治政府も、自らの国の文明開化ぶりを西欧に示すために、赤レンガのヨーロッパ風の建築によって都市を飾ることに熱心であった。これは植民地における建築表現を裏返しにした、一種の国家的なジェスチュアであったと言えるだろう。

 と同時に、植民地都市などには、本国でも試みることのできなかった野心的な実験が行われることもあった。特に1911年にエドウィン・ラッチェンス卿(Sir Edwin Landseer Lutyens 1869-1944)により計画されたインドのニューデリー(New Delhi)、同じ1911年にウォルター・バーリー・グリフィン(Walter Burley Griffin 1876-1937)によって計画されたオーストラリアのキャンベラ(Canberra)などの都市は、放射状の道路網が重要な施設を直線で結ぶ、西欧のバロック的美意識によって貫かれた新都市計画であり、ヨーロッパではもう実現できない都市プランであった。

 ラッチェンスはニューデリーにインド風のモティーフを加味した「総督府(現インド大統領官邸, Rashtrapati Bhavan)」などを設計したが、そこにはインドの伝統に対する理解よりは、むしろインドの様式を、誠実にではあっても、西欧風に解釈しようとする姿勢が強かった。

 ニューデリーやキャンベラ以外にも、欧米の建築家が、いわゆる第三世界の都市を計画する例はいくつかある。ル・コルビュジエが計画したインドのチャンディーガル(Chandigarh)、ルイス・カーン(Louis Isadore Kahn 1901-1974)が設計したバングラディシュのダッカ(Dhaka)の建築群などがそれである。こうした計画では、西欧的な建築の表現と、土着の建築の伝統を、どのように捉え、どちらの糸を他の糸に組み合わせるかが、常に問われることになる。

 そうした問題を考える時に、常に引き合いに出されるのが、ブラジルの新都市ブラジリア(Brasília)だろう。1957年にフランス生まれのブラジルの建築家、ルシオ・コスタ(Lucio Costa 1902-1998)によって計画されたブラジリアは、巨大な飛行機あるいは翼を広げた鳥のような形をしていた。

 ここには、真の意味での国際様式の建築群が建設されたが、その結果は、近代の無国籍的な国際様式という糸だけを握っていたのでは、建築家は真の未来を切り拓くことはできないのではないかという気持ちを抱かせるものだった。

 当時、失敗例と見なされたブラジリア開発を反面教師としたクリティーバ・マスター・プラン(Curitiba Master Plan)は、1950年代に人口が倍増したブラジル・クリティーバ市に導入された、ヒューマンスケールで町並みを考える都市計画だった。1964年の新たな都市計画のマスタープランのコンペで最優秀賞を獲得した、当時、大学生だったジャメイ・レルネル(Jaime Lerner 1937-)ら、社会プロジェクト研究会の案が70年代に実施されたものだ。クリティーバは、1996年の第2回国際連合人間居住会議(HABITAT II)で「世界一革新的な都市」として表彰を受けている。

丹下健三の軌跡

 非西欧の建築の伝統の中から生まれた世界的な建築家に、丹下健三(1913-2005)がいる。
 1938年に大学を卒業し、前川國男建築設計事務所(前川國男 1905-1986)に入り、そこで御茶ノ水に建てられた「岸記念体育館(1940)」の設計を担当し、やがて1941年12月に東京帝大の大学院に戻った彼は、在学中にバンコク(Bangkok)の「日泰文化会館」の設計競技に一等入選するなど、若くからその存在を注目されていた。

 彼の戦後の出発を画する作品は1955年に完成した「広島平和会館(広島平和記念資料館)」だ。丹下健三の広島での作品は、原子爆弾によって壊滅的被害を被った広島の町に、死者を祀り平和を祈念して新しい生命を吹き込むための施設であった。この計画はその敷地が広島を流れる太田川と元安川との中洲の先端部にあり、川を隔てて残る「原爆ドーム(1915 設計・ヤン・レッツェル Jan Letzel, 旧・広島県産業奨励館)」の廃墟の姿を焦点に据えた建築群として構成されている。全体は都市計画的配慮をもって立案され、建築と都市とが密接不可分のものであることを人々に深く印象づけた。この作品は1951年のCIAMに計画案として提示され、戦後の日本建築が西欧諸国に紹介される先駆けにもなった。新しい戦後日本の建築を示す作品が、原爆を否定し平和を祈願する施設であったことは実に象徴的な出来事である。

 この同じ年、東京では「法政大学55年館」が建てられる。設計者大江宏は、近代的な建築教育を受けた建築家ではありながら、彼の父親は日光の東照宮をはじめとする伝統的建築の修復工事の大家であり、そうした様式によって作品を設計した建築家としても知られる大江新太郎(1876-1935)である。しかしながら大江宏は法政大学校舎の設計では、父親の作風に見られたリヴァイヴァリズムの作風はいっさい示さず、国際近代様式による大学校舎を設計した。彼の法政大学での仕事は、この後、「58年館」「62年館(現・法政大学市ヶ谷田町校舎)」と基本的に同じ路線を歩み続ける。

 戦後の文化を象徴する新制大学の校舎にこのような新しい建築が出現したことは、それまでのゴシック様式を基調とした戦前からの大学校舎を見慣れていた人々を驚かせるものであった。ファサードに取り付けられていたHosei Universityというネオンサインの文字を、Hotel Universityと読んだ者もいたという。東京に限らず、戦後の日本には無数といっていいほどの大学が新設されていくが、そうした文化の大衆化、新制大学の象徴のひとつがこの「法政大学55年館」だった。

 興味深いのは、「広島平和会館」を設計した丹下健三と、「法政大学校舎」を設計した大江宏は、ともに1938年に東京大学(東京帝国大学)を卒業した同級生だったことだ。丹下と大江という二つの個性は、戦前に建築教育を終え、1955年に両者揃って本格的なデヴューをし、その後も興味ある軌跡を歩み続けていく。現代の日本建築を考える時には、この二人の建築家の作品の変化を対照的な指標として考えることができるのではないか。丹下健三はその後の日本建築を担う主要な作品を次々に生み出していき、現代建築の基本的潮流を形成していく。それに対して、大江宏はその後静かに旋回を遂げ、伝統的な文化と現代文明とを同時に表現すべき建築を模索していくことになるからである。この両者の軌跡の間に、昭和の日本建築の流れはすっぽりと収まってしまうと言ってもいい。

 1964年、東京でオリンピックが開催される。時期を同じくして東京─大阪間には時速200キロ以上のスピードを誇る新幹線が開通し、東京都内には首都高速道路が建設される。オリンピックを機に、日本の都市空間は戦後の復興を終えることになる。オリンピックの建築家は芦原義信(1918-2003)、丹下健三であった。しかしこのうちでは、構造設計家坪井善勝(1907-1990)との共同で、代々木に「国立屋内総合競技場」を設計した丹下の存在がポピュラーになった。吊り屋根の形態を造形の基本に据え、その曲線に日本的な優美さを与えた丹下の技術は世界に彼の名を知らしめることとなる。

 社会が経済成長を続け、建築業の技術力も充実した時期に開催された東京オリンピックは、そこに建築家のヴィジョンを込めるのにもっとも相応しいクライマックスであった。この主役を務めた丹下健三は、戦後の日本建築の歴史を見事に描き切ったのである。以後、彼の大規模な作品は日本以外の諸国を中心とするものに移っていく。20世紀末に丹下は1986年に行われた東京都の新「都庁舎」の設計競技に入賞し、再び国内で広く注目を集める。

 一方、大江宏は1982年に東京に日本的な建築表現を持つ「国立能楽堂」を完成させる。かつてこの二人の同級生の作風の開きの中に、当時、日本で活動する現代建築家が選びとることのできる可能性の幅の大きさと、そして、それだけに建築家が表現の方向を見出すことの難しさも感じられる。

非西欧の建築家たち

 丹下健三や大江宏に限らず、非西欧の建築家たちが切り拓く現代建築の世界は大きい。
 1975年に没したギリシャの都市理論家コンスタンティノス・ドキシアディス(Constantinos Apostolos Doxiadis 1913-1975)は、エキスティクス(Ekistics)という概念を提唱した。それは人間の環境を単なる建築物によってつくられるものではなく、過去・現在・未来にわたる時間の流れの中で生成する住居環境だと考えるものだった。そこでは建築・都市・地域という広がりも、連続的なものとして捉えられる。

 ドキシアディスの考える都市や住居環境は、はっきりとした道路の図式的パターンではなく、時間・空間にまたがるシステムなのである。それは第三世界をも念頭においた時に発想される人間居住環境に対する考え方だと言えよう。

 イスラエル生まれのモシュ・サフディ(Moshe Safdie 1938-)もまた、住居に関する関心によって注目を集めた建築家である。集合住宅「アビタ'67(Habitat 67)」は、1967年に開かれたモントリオール(Montreal)万国博覧会のためのモデル住宅であるが、その後も住宅計画の中に彼は新しい社会に合致した住宅像を求めた。そこにはプレファブ的な工業化された住宅像が認められるが、そうした発想と、カナダに移住したとはいえ、イスラエルという非西欧の新しい国出身の建築家であることは無関係ではないだろう。

 エジプトにはハッサン・ファジー(Hassan Fathy 1900–1989)という建築家が現れる。彼は一時、ドキシアディスのパートナーでもあり、サフディとは対照的に、エジプトの伝統的な形式の建築を再発見することに努めた。伝統的な建築をもとに現代の建築を生み出すことは、言うは易く行うは難い。ファジー自身、多くの建築を次々に設計し、大作を次々に完成させるという道を選ぶべきではないと説いた。しかしながら、こうした禁欲的な態度で、住み手や施工者と一体となって建築をつくる方法は、エジプトの建築家たちや、さらにはアラブ諸国の建築家たちに、深い影響を与えることとなった。

 インドで活動する建築家チャールズ・コレア(Charles Correa 1930-2015)もまた、ドキシアディスの発行している雑誌「エキスティクス」に参加した経験を持つ。彼はル・コルビュジエがチャンディーガルに行ったような強力な西欧的方法ではなく、アジアの中で、そしてインドの中で表現されるべき建築を探求し続けた。インド固有の建築要素であったベランダ(Veranda)を現代建築の中に用いようとする彼の作品は、そうした意識に基づくものだと言えよう。

 コレアは、アジアの建築家たちが協力しながら新しい建築を目指すべきだと提唱したが、そうした交流の中には、香港の建築家タオ・ホー(Tao Ho, 何弢, 1936-) がいる。タオ・ホーは上海生まれで、アメリカに学び、香港で活動するというコスモポリタンで、香港に文化の拠点をつくるべく「香港芸術センター(1977 Hong Kong Arts Centre)」を設計するなど、西欧と東洋の接点である香港という土地を積極的に活動の場としてきた。

 韓国の建築家金壽根(Kim Swoo-geun, 1931-1986)は、日本で建築を学び、母国で旺盛な設計活動を行った。そこには、自国の文化的な表現をいかにして建築表現に与えるかというテーマの追究があったと言えよう。

 こうした建築家は、まだまだ世界に満ちている。今や世界は時間的にも空間的にも急速に均一化しつつある。そうした時代に、非西欧の建築家たちは、近代建築が獲得した普遍的な建築表現に、自分自身の文化の表現をどのよう与えていくかという課題に取り組んでいたのである。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。