SSブログ

7. 近代主義建築のもうひとつの流れ [デザイン/建築]



ルドルフ・シュタイナーの建築思想

 近代建築やモダンデザインの運動の背景には、産業革命と並行して生まれた18世紀以来の西欧文化の新たな思潮、たとえば、ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau 1712-1778)の合自然性という考え方に連携を持つ教育実践家ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ(Johann Heinrich Pestalozzi 1746-1827)や、その影響を受けたフリードリヒ・フレーベル(Friedrich Wilhelm August Fröbel 1782-1852)の全人格的な教育運動の流れ、ゲーテの思想を継承するルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner 1861-1925)の人智学(Anthroposophie)の運動などの流れがあったことも忘れてはいけない。また、建築が芸術と決別し、建築家が芸術家から高級専門職へと転身を果たした時代、ヨーロッパでは逆に、建築と芸術を再統合する動きも現れ、これらも結果的にデザイン近代化の推進力となった。近代建築の黎明期、建築家たちは無抵抗に新時代の合理主義、機能主義に迎合していたわけではない。

 幼稚園の創始者フリードリヒ・フレーベルはもともとは建築家だった。彼は、生物や無生物が共存している「自然有機体」の発想の下で、子どもたちが先天的に有する「共同感情」に即して「合自然性」を提供することに腐心、自己教育手段である遊具や作業具も自然から学ぶ環境があってこそ、本来の魅力を発揮すると考えていた。同時に、身体で感ずることが世界を知ることの出発点であると捉えていた。

 フレーベルは幼児の無垢な心、たとえばごっこ遊びのような自由な「見立て」の空想、あるいは象徴思考の大切さを認識し、その心を豊かに育むための教育遊具として「恩物(1838 Gabe, Gift)」を考案する。象徴思考はしばしば概念思考へと向かう段階で失われ、既成概念で縛られていくが、「恩物」は子どもたちに、形と意味の関係の象徴的な世界(イメージ)を広げていくだけでなく、手でつかみながら、数や力の抽象的関係の世界をも把握する(ドイツ語の「概念」という語は「手でつかむ」という語に由来する)きっかけを与えた。

 実はバウハウスの基礎教育は、無垢な心を持つ「子ども」に戻す試みだったとも言われており、バウハウスでも積み木「バウスピール(Bauhaus-Bauspiel)」を使った教育が行われていた。フランク・ロイド・ライトも幼少期にフレーベルの「恩物」で遊んだ感触が、建築家として活躍してからも指先に残っていたと述べている。

 人智学者で建築も手掛けたルドルフ・シュタイナーは、現代の機械工業的環境に生きる私たちは、ウィリアム・モリスのように機械から逃避し、自然の中へ隠遁するよりも、その状況を運命と捉え、芸術によって「均衡」を得ることができると述べている。人智学で建築は、もっとも外的な芸術と考えられ、均衡の象徴でもあり、諸芸術の融和の始まりとして捉えられてきた。一方で、産業革命と並行して登場した近代的な都市の中、純粋化の過程で総合芸術としての性格を失っていく建築を憂い、再び建築の下に諸芸術を再統合することを目指す活動があった。例えば初期のバウハウスや一部のアール・ヌーヴォーの作家たちの試みだ。建築と芸術が不可分だった中世のゴシック建築を、人間の空間の理想と考えた。

 1898年のニーチェ全集(Friedrich Wilhelm Nietzsche 1844-1900) の出版は、個性の力と価値を尊重する思潮を生み、唯物論から個人を解放し、個の判断による価値観を前提とした社会を育んでいった。こうした意識の変化も建築やデザインを大きく動かしていく。

 この頃、中欧では、国力増強や機械生産性向上のための合理化や規格化の研究も盛んになる。こうした動きに対して、芸術と相容れない非人間的な日用品が市場に溢れることに異議を唱える者もいた。アール・ヌーヴォーを代表する造形作家アンリィ・ヴァン・デ・ヴェルデ(Henry van de Velde 1863-1957)もその一人だ。同様に、機能純化され幾何学フォルムに向かう近代建築に対し、有機的な考え方や動植物の形態に空間の合理性を獲得しようとする、ガウディやフーゴー・ヘーリンク(Hugo Häring 1882-1958)のような建築家も現れ、建築を生命体と見立てる視点も生まれた。建築は生きているという考え方は、シュタイナーの建築思想にも重なる。

 シュタイナーの建築には、単なる自然の模倣ではなく、自然界の原理で建築を捉えることで、建築と細部に生きた関係を導き出す考えがあった。彼は、自然主義的に模倣することと有機体の中に生きている自然の創造力を体験することと区別している。彼が手掛けた代表的な建築が、スイス・ドルナッハ(Dornach)に建つ「ゲーテアヌム(1926-29 Goetheanum)」だ。この建築は「第二ゲーテアヌム(Zweites Goetheanum)」とも呼ばれ、木造で設計され1922年に完成した「第一ゲーテアヌム(Erstes Goetheanum)」は同年、放火により焼失している。シュタイナー自身は1925年の「第二ゲーテアヌム」着工直後に死去している。様式についてシュタイナーは、次のように述べている。
 「人智学=精神科学は相対的な人間学から生まれるものであるからこそ、この建築になにかある任意の建築様式を選んできてこれに当てはめるような矛盾を犯すわけにはゆかなかった。これは理論を越えたものであり、生命である。だからこそこの精神科学は単にその核を与えるのみならず、その殻をもまたその固有のフォルムによって与えなければならなかった」(1921 Der Baugedanke des Goetheanum)。

 表現主義建築で知られるエーリヒ・メンデルスゾーン(Erich Mendelsohn 1887-1953)は、近代建築の問題解決には「ガラスの世界の使徒。空間の諸要素の分析者。材料と構造による形態の探求者。」の活動が必要であると説き、「近代建築の問題(1919 Das Gesamtschaffen des Architekten)」に次のように記している。
 「新たな意志のみが、その混沌たる刺激の無意識さのうちに、その普遍的なとらえ方の根源性のうちに、未来そのものをもっているのだ。なぜなら、人類の歴史の発展にとって決定的であった時期が、すべて、その時代精神の意志のもとに、知られるかぎりの世界全体を統一していたように、われわれが待ち望んでいる時期もまた、特定の地域をこえ、ヨーロッパをこえて、あらゆる民族に幸いをもたらすものでなければならない。だからといって、私はけっしてインターナショナルスタイルを弁護するものではない。インターナショナリズムというのは、崩壊した世界の、民族をぬきにして唯美主義を意味するものだからである。だが、超国家性とは国民的な限界を前提として含むものであり、自由な人間性であり、そうした人間性のみがふたたび包括的な文化をうちたてることができるのである」。

バウハウス──芸術と建築の統合

 アール・ヌーヴォーの背景を再び振り返ってみよう。かつて建築はその時代時代の様式を纏ってきたが、19世紀は唯一絶対の時代様式が存在せず、建築家たちは過去の様式を設計の基本に据え、ゴシック様式や古典主義によって建築を発想していた。主観より客観を重んずる唯物論的な傾向は、建築に対しても歴史的実証性を要求し、建築家たちは自作の建築が歴史的由緒で設計され、客観的な正しさを保証するために様式は用いられていた。しかし、過去の美意識に捕われず、個人の力と価値を信じる新興市民の間では、客観的様式や折衷主義に対する懐疑の念も湧き上がってくる。アール・ヌーヴォーの新様式の模索はそこに芽生えた造形と言っていい。

 アール・ヌーヴォーの作家たちの間には、純粋芸術(絵画や彫刻)と応用芸術(工芸)の垣根を取り払い、両者を等価値に扱い、総合芸術作品として建築の下にすべての芸術を統合しようと試みる動きもあった。こうした潮流が、ヴァイマール工芸学校(Kunstgewerbeschule Weimar)の校長を務めたヘンリィ・ヴァン・デ・ヴェルデを経て、同校を母体とするバウハウス、ヴァルター・グロピウスのバウハウス綱領(1919 Bauhaus-Manifesto)へとつながっていく。

 ドイツでは第一次大戦を経て1918年に共和主義(Republicanism)革命の下、ヴァイマール共和国(Weimarer Republik)が誕生。歴史上まれにみる戦争を経験した芸術家たちは、戦争での陰惨な体験をさまざまな表現で世に還元し、西欧では人道主義精神が高まっていく。ヴァイマールでは、1917年のロシア革命で主導権を握った兵士・学術者評議会に倣い、ブルーノ・タウトを議長とする芸術労働評議会が結成された。1919年にはヴァイマール国立バウハウス綱領と宣言が発表され、同年4月ベルリンでは芸術労働評議会の主催による無名建築家展(Ausstellung für unbekannte Architekten, Exhibition of Unknown Architects)が開催される。

 この展覧会では「建築芸術とはいったい何か。それは人間のもっとも高貴な思想、その情熱、その人間性、その信仰、その宗教の透明な表現だろう。偉大な唯一の芸術、つまり建築を忘れ去ったわれわれの世代……(中略)建築家、画家、彫刻家の諸君、われわれはすべて手工作へ立ち返らねばならないのだ。なぜなら『職業としての芸術』など存在しないからだ」とする宣言文がパンフレットに掲載される。これは「すべての造形活動の最終目標は完璧な建築である」から始まるグロピウスのバウハウス綱領とほぼ同じ内容だった。

 グロピウスとタウトは諸芸術を「建築」のもとに再統合しようとする大きな望みを抱いていた。グロピウスによって命名された「バウハウス」の名には、芸術と建築が未分化だった時代、中世のゴシック大聖堂を築いた無名の工匠集団バウヒュッテ(Bauhütte)の理想のイメージが重ねられ、「建築と芸術の再統合」を象徴する命名だったことが窺える。

 一方、バウハウスにも大きな影響を与えた、オランダのデ・スティルも、視覚芸術を建築空間に統合する試みに挑んでいた。デ・スティルの中心人物テオ・ファン・ドゥースブルフ(Theo van Doesburg 1883-1931)が提唱する造形原理とは、「構成要素は、これ以上分解することができないいくつかの基本要素にまで還元され、その上でこれらの要素は、あらゆる造形において、中心がなく、均一に、相互が重要な役割をもつように関係づけられた、分かちがたい全体の空間へ統合される」(2007「国際構成主義 中欧モダニズム再考」谷本尚子)ものだった。家具職人でもあったヘリット・リートフェルト(Gerrit Thomas Rietveld 1888-1964)が設計した「シュレーダー邸」(1924 Schröderhuis)は、その造形原理の体現でもある。

 バウハウスが設立された翌年1920年、モスクワ(Moscow)にも新しい造形学校ヴフテマス(VKhUTEMAS, VKhUTEIN)が開校する。当時、国際社会から外交的孤立していたドイツとロシアに先進的な造形学校が誕生したことになる。
 ヴフテマスではアレクサンドル・ロトチェンコ(Aleksander Mikhailovich Rodchenko 1891-1956)の造形・デザイン教育を通して産業工芸的な概念が具現化された。ヴァシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky, Vassily Kandinsky 1866-1944)、ロトチェンコ、リューボフ・ポポーヴァ(Liubov S. Popova 1889-1924)、エル・リシツキー(El Lissitzky 1890-1941)らが同校で講師を務めていた。ロトチェンコは基礎部門で点と線、静的な線、平面、ボリューム表現の4分野を担当し、まず平面から陶芸、木工、金工へと展開するカリキュラムをつくりあげた。

 当時のソヴィエト連邦(Soviet Union, USSR, CCCP)は、ネップ(1921~26 NEP, Novaya ekonomicheskaya politika)の時代に指導者レーニン(Vladimir Lenin 1870-1924)が資本主義を一部導入、西側との和解を促した。この時代、ロトチェンコは、1925年にパリで開催された装飾美術・工業美術国際展覧会(アール・デコ展)に、木造二階建ての「ソヴィエト・パヴィリオン」を手がけ、革命後の社会主義政権が目指す理想のライフスタイルを展示する。建築設計を担当したのはコンスタンチン・メリニコフ(Konstantin Stepanovitch Melnikov 1890-1974)。ロトチェンコは館内の「労働者クラブ」のインテリアをデザインしている。

 この二つの造形学校は1923年に転機を迎える。産業との関係が強化され、次第に生産効率を向上するための訓練機関的な意味合いを強くしていくのだ。

 ドイツは戦後のインフレを克服し、アメリカ資本の導入による経済再興の機運が高まると、それと歩を合わせるように、バウハウスでは、「建築と芸術の再統合」よりも、デザインを芸術と近代機械産業の結合として捉える姿勢が強く打ち出されるようになる。予科教育を担当しバウハウスの実質的な主導者だったヨハネス・イッテン(Johannes Itten 1888-1967)は、1923年、産業との連携を推進する合理主義のグロピウスと袂を分かち離校してしまう。このバウハウスの変革には、1921年にドゥースブルフが行った講義で、同校のロマン主義的傾向を批判したことの影響があったと言われている。

 ヨハネス・イッテンは美術教育の根本的な変革を目指した基礎教育課程(予備課程)をバウハウスに導入した教育者で、イッテンがバウハウスを去った後はヨーゼフ・アルベルス(Josef Albers 1888-1976)とモホリ=ナジ・ラースロー(Moholy-Nagy László 1895-1946)が予科を引き継ぎ、デザイン教育の基礎教育課程として基礎づけられていく。教育学を習得したイッテンは、美術の才能は天賦のものではなく、教育と訓練によってその才能は身に付くと考えた。彼の独自の予科教育カリキュラムは、その後の美術デザイン教育に大きな影響を与えた。

人体・身体と建築

 1907年、ガウディは「カサ・ミラ(Casa Milà)」を、シュタイナーは「デゥルデックの家(Haus Duldeck)」を手掛けるが、両者の造形にからは不思議な共時性が感じられる。建築家の上松佑二(1942-)は「世界観としての建築」で、ガウディの書斎には、シュタイナーが編纂した「ゲーテの自然科学論文集(1883-1897 Goethes Naturwissenschaftliche Schriften, Goethean science)」があった書いている。両者は植物のメタモルフォーゼ論を介してつながっていたのである。ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 1749-1832)は自然の生成の中、動植物の生成の中に収縮と拡張という形態生成の法則を原現象として発見する。植物のメタモルフォーゼ論(Die Metamorphose der Pflanzen)は、シュタイナーの建築はもちろん、表現主義建築家たちにも影響を与えた。ガウディもシュタイナーも、建築は生きているという立場に立ち、造形に曲面を多用する形態だけの有機的建築とは一線を画している。

 1919年、ドイツの表現主義建築家フーゴー・ヘーリンクは、ノイ・ウルム(Neu-Ulm)に「ローマー邸(Römervilla)」を設計する。彼は、近代建築の非人間性を回避すべく、幾何学や合理主義に代わる理論を求めていた建築家だった。ヘーリンクが目指した建築はOrganとしての建築である。その建築は人智学からの影響を強く受け、建築とは人間の肉体の一部の器官(Organ)として作用すると考え、建築を生物そのものと捉えていた。

 20世紀始め、造形・装飾の「器官」としての作用に気づき、装飾の決定に歴史的客観性ではなく、器官としての合理性を採り入れた先駆者はヘンリィ・ヴァン・デ・ヴェルデだった。彼は装飾を、対象の機能や構造との有機的関係をもった一種の器官と見なす有機的装飾論に行き着いていた。「線は力である」として、線の持つ生命力や、意味を介さずに直接人間の感覚に働きかける能力に着目し、「装飾は一つの器官(Organ)となり、単に貼り付けられたものであることを拒否する」と「工芸のルネサンス」(1901 Die Renaissance im modernen Kunstgewerbe)に記している。

 もともと画家志望だったヴァン・デ・ヴェルデがデザインや建築へと転じていったのは、モリスのアーツアンドクラフツ運動の道徳観や倫理観に感銘をうけたからだ。彼は、この運動が理想としていた原始共同体のようなユートピア社会に共感し、折衷主義のデザイン建築によって汚されている目前の社会環境を浄化することが、自らの使命と考えていた。しかし彼は、単純に、機械生産が無価値で、工業が芸術の貧困を招くと見ていたわけではなく、「芸術産業にかかわるものは、将来自分たちの名声は自分たちの工業で生産された品物の美的、または倫理的な価値で決まるようになるのだ、ということをわきまえる必要があった」として、工業生産のための見本品の制作や素材の選択こそ芸術家の手になるべきだとも主張している。

 また戦後、フランスの構造設計者ロベール・ル・リコレ (Robert Le Ricolais 1894–1977)は、1954年より、化学分析的視点から自然の造形と構造の研究を始め、体重のわずか1/5の重量で身体を支える究極の構造体「人骨」の秘密を探り出した。その強度の秘密は脛骨の拡大写真に見られる骨内部の空隙にあることを明らかにしている。

中世建築への夢

 19世紀末から20世紀初頭、有機的建築と呼ばれる作品を設計した建築家には、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトとフィンランドの建築家アルヴァ・アールト(Alvar Aalto 1898-1976)がいる。ライトが1880年代に手がけた、アメリカの広大な草原と造形的にも精神的にも融合した建築群は、ビクトリア様式の重厚な建築に憧れを抱いていたアメリカ人の意識を変革させる力を秘めていた。ライトは自らの建築を「有機的建築(Organic Architecture)」と称したが、ここで言う「有機的」とは、建築は機能主義一辺倒ではなく、外部と調和し、人の有機的な生活を反映させたものであるべきだとする理念から導き出された言葉だった。一方、アールトは自身の作品を有機的であると述べたことはない。彼は初期のバウハウス同様、芸術家と職人の区別はなく、芸術と技術は一つの理想で建築に統合されていた中世の建築を理想としていた。実際、建築家アールトは中世の文化から多くを学び、中世の建築の多くは無名の建築家の手になるもので、それでいて素朴で人間的な美しさに満ちていると賞した。ルネッサンスは中世の暗闇から抑圧された人間を解放したといわれるが、建築に関してグルピウスやアールトは、真逆の評価を与えていたようだ。

 アールトに師事した建築家武藤章(1931-1985)は、アールトが「中世の建築を愛するのは、人間のための空間を持っていたからであり、技術一辺倒の当時流行の建築に危惧を抱き手工業的な建築に熱中した。それは20世紀の文明が人間のための空間を失うことを恐れたからである」(1969「アルヴァ・アアルト」)と記している。アールトが家具にスチールパイプを用いなかったのも、金属の非人間性を嫌ったからと言われている。

 彼は、木工で秀でた仕事を残したアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデを敬愛しており、1946年のチューリヒ(Zürich)の展示会では「われわれの時代の建築の偉大なパイオニアであり、木の技術の革命を直感した最初の人であるアンリィ・ヴァン・デ・ヴェルデに捧ぐ」という謝辞を残していた。

 1904年、フィンランドでは「ヘルシンキ駅」設計コンペで、サーリネンのロマンティック・ナショナリズム的な案が審査員に絶賛され一等に選ばれるが、これに異を唱えた一人が、ヘルシンキ工科大学でアールトを教えたシグルド・フロステルス(Sigurd Frosterus 1876-1956)だった。このコンペの直前まで、フロステルはヴァン・デ・ヴェルデのアトリエで建築の仕事を手伝っていた。彼は「われわれはもはや狩猟や漁撈によって生活していない。したがって植物の装飾や、熊(他の動物でも同じこと)は蒸気と電気の時代を表現しはしない」として、サーリネンの案に対し新聞紙上で次のような抗議声明文を発表する。「正当性を確かめることなく昔の様式を用いるのは、裸のままで歩きまわり、指をつかって食事をし、鉄砲の代わりに弓矢を使うのと同じように無意味なことだ。(中略)建物はもはや単なる絵のような姿、また大きな死んで動かない塊りではない。それは目的に従って行動し、環境に適合していく有機体なのである」。

 彼らの主張はロマンティック・ナショナリズムの熱狂を一気に冷まし、結果的にサーリネンも合理主義的な配慮を窺わせるヘルシンキ駅修正案を提出することになる。



生とデザイン―かたちの詩学〈1〉 (中公文庫)

生とデザイン―かたちの詩学〈1〉 (中公文庫)

  • 作者: 向井 周太郎
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2008/09
  • メディア: 文庫





デザインの原像―かたちの詩学〈2〉 (中公文庫)

デザインの原像―かたちの詩学〈2〉 (中公文庫)

  • 作者: 向井 周太郎
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2009/01
  • メディア: 文庫





シュタイナー・建築―そして、建築が人間になる

シュタイナー・建築―そして、建築が人間になる

  • 作者: 上松 佑二
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1998/03
  • メディア: 大型本





世界観としての建築―ルドルフ・シュタイナー論 (1974年)

世界観としての建築―ルドルフ・シュタイナー論 (1974年)

  • 作者: 上松 佑二
  • 出版社/メーカー: 相模書房
  • 発売日: 1974
  • メディア: -





アルヴァ・アアルト (SD選書 34)

アルヴァ・アアルト (SD選書 34)

  • 作者: 武藤 章
  • 出版社/メーカー: 鹿島出版会
  • 発売日: 1969/03/05
  • メディア: 単行本





国際構成主義―中欧モダニズム思考

国際構成主義―中欧モダニズム思考

  • 作者: 谷本 尚子
  • 出版社/メーカー: 世界思想社
  • 発売日: 2007/03
  • メディア: 単行本





ルドルフ・シュタイナーの黒板絵

ルドルフ・シュタイナーの黒板絵

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 日東書院本社
  • 発売日: 2014/03/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。