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人は記憶の奴隷である [買い物/お店]

わが家でいちばん古い家具はヴィスコンティア Visconteaというイタリア生まれのアームチェアだ。アッキレ・カスティリオーニの作と言う人もいる。それは、この椅子のもとになっている“サンルッカ Sanluca”をカスティリオーニがデザインしているからだろう。サンルッカは4本の脚が座面を支えているけど、ヴィスコンティアは擦り足のような形状に変更されている。ひっくり返すとグライズが四つビス止めされているので、実際には擦り足ではない。15年くらい使ってきて、さすがに張り地の痛みも酷くなってきたので、取り扱い業者に張り替えの見積もりをお願いしていて、その結果が郵便で送られてきた。代金は約18万円だった。予想以上に高い。張り地は赤のエクセーヌで計算してもらった。今の張り地はオリジナルの黒のメルトンだ。今のままでは見すばらしいので、最終的には張り替えをお願いすることになると思うのだけど、まだ決心がつかない。ぼくは大久保の古い木造アパートで暮らしていた頃からこの椅子をずっと使ってきた。出版社を辞めた退職金で買った椅子だった。日経新聞の夕刊で紹介していただいたこともある。雑誌の表紙にも使ったことがある。家に遊びにきたノラネコが座面の端っこで一晩寝ていたこともある。15年も使っていると、いろいろな思い出に取り憑かれていて、手放せなくなってしまうものだ。


昔暮らしていたアパート。右側の黒い椅子がヴィスコンティア。撮影は林雅之さん。


これがサンルッカと、後ろはカスティリオーニ兄弟。撮影はマンレイだと思う。

映画「ゴースト/ニューヨークの幻」(1990年)は、銀行員と女性アーティストのカップルがニューヨークの古いアパートメントを改装するシーンから始まる。 いかにもアーティストっぽいショートカットのデミ・ムーア演じるモリーが、ぼろぼろの部屋を見事なモダン空間に改装し、二人で暮らし始めようとする時、コンサバでヤッピーのサムは、モダン空間にはいかにも不似合いな、古めかしいアームチェアを部屋に運び込んできたのだ。これでは素敵なモダンインテリアがブチ壊し……最初は不満そうだったモリーも、結局、サム愛用の椅子を、二人の暮らしに受け入れる。建築家渡辺武信さんの著書「銀幕のインテリア」では、アメリカでは椅子は属人器であり、日本人がマイ箸を使うようにマイチェアの文化がある証左として、この映画の一シーンを紹介している。モリーは最終的には、サムがサム固有のマイチェアを愛用することを生活文化として否定できなかったのだ。映画のストーリーは進み、やがてサムは亡くなり、モリーの美意識には適わなかったサムの椅子は、その後の彼女にとって、なくてはならない椅子になる。それは彼女にとってはもはや椅子ではなく、サムの記憶でありサム自身と言っていいかも知れない。人は記憶と思い出に隷属している。美意識も正義も倫理も、それを超えることはできない。だから理不尽な犯罪も起こるし、理不尽な恋愛にも陥る。合理的な因果関係だけで人は行動しているのではない。自分が判断しているのではなく、記憶が判断しているケースが多い。

今日、Apple Storeに故障したPCを持っていったのだが、残念ながらHDのデータを救出することはできなかった。その中にはドイツの写真や、当時のフェローたちとのメールのやりとりなどが収められていた。「データはすべて消失しますがそれでもHDを交換しますか」と尋ねられ、「はい」と即答できないのは、ぼくがぼく自身の過去に縛られているからだ。人の思い出は頭の中にあるのではなく、自分の身体や、身の回りのさまざまなモノや風景、状況に宿っている。写真も人の思い出が埋め込まれやすいモノの一つだ。心霊写真の都市伝説もそんなところから生まれたのだろう。

ヨーロッパの人々が頑に町並みを変えないのは、町の風景に市民の記憶が宿っているからではないかと思うことがある。風景が変わることで失われる記憶がある。だから変えられない。ドイツでは、痛々しい戦争の跡をそのまま残している建物がいくつもあるのだが、忘れていはいけない記憶があるのだろう。ユネスコの世界遺産もそんな視点の上に築かれているのではないかと思う。それに比べて、スクラップアンドビルドで町並みをどんどん更新していく日本は、文化として、記憶の貯蔵庫を風景やモノ以外の何かに委ねているのではないかと思うわけだ。儚いものを愛したり、消えゆくものに惹かれたり、確固たるモノ性には頼らない記憶の成り立ちがあるのではないだろうか。古い町並みが残る西欧が豊かで、古い町並みをいとも簡単に壊して作り替える日本の精神は貧しい、など、実際はそんなに単純ではないと思う。あくまで個人的な考えだけど。

例えばプレゼントは、ぼくはすぐに壊れるモノが良いと思っている。
贈り物というのは、生産と消費で単純化される古典的な経済学では合理的な説明が難しい。貨幣によって財やサービスを購入するのだが、贈り物は、自分では消費しないで、それを他人に贈ってしまうこと。伝統的な経済学では消費者は、常に利益を最大にし、効用を最大にしようとして合理的な判断をする孤立した個人として捉える(この人間モデルが既に古いんだけど)。この文脈で贈り物の合理性をどう考えたら良いのか。巡り巡って自分の利益になると考えられないこともないが、世の中の人々はそこまで世知辛くはないものだ。では、なぜ人はモノを贈るのだろう。実はモノにはあまり意味がなくて、贈る気持ちや、いただく気持ちが重要なのだとぼくは考える。モノは、記憶の交換と共有の媒体に過ぎない。その気持ちや記憶の純粋さのために、モノはすぐ消えたほうがいい。できるだけ壊れやすいものがいい。モノに隷属するよりは記憶の虜になったほうがまだマシ、とぼくは思うわけだ。これは日本的な考え方なのだろうか。偏屈な個人的所見なのだろうか。

フランス語で贈り物を指すCADEAU(カドー)の語源は“言葉”だ。誰のために咲いたわけではない花に、ひとこと言葉を添えることで、贈られたほうは「この花は私のために咲いたのだ」と思うようになる。この場合、花が贈り物なのではなく、言葉が本当の贈り物だと思う。この際、言葉がなくてもいいとさえ思う。花は枯れてしまう。でも、枯れてしまうからいい。永遠に残るものでなく、何の実用もないところがいい。

結局ぼくは、HDを取り替えることにした。過去の一部を切り捨てる時が来たのだと考えた。そうでも考えないとやり切れないから。記憶から解放される時がやっと巡ってきたのだと思った。数日後、ぼくのPCは、昔のことをすべて忘れてぼくの手元に戻ってくる。PCは人ではないから、何かの拍子に、例えば懐かしい曲を聴いた瞬間に、かつて見た風景が再現された時に、コーヒーカップを手にした感触で、食堂に立ちこめる香りで、ふと昔のことを思い出すなんてことはない。PCにとっての記憶(メモリー)はそんなものだ。

この10年間でぼくは椅子を30脚以上買ったと思う。それで20脚以上を処分してきた。ほとんどは中古家具店に買い取ってもらった。フリマで売ったものや、知人にプレゼントしたものもある。だから今、家に残っている椅子は自分にとっての究極の6脚(新しく購入した椅子1脚とソファ、デスクチェアは含まず)。この6脚は一生使っていくと思う。ヴィスコンティアもその1脚だ。年内には張り替えを終えたいと思う。そうだ、今の仕事の原稿料で張り替えよう。最近は椅子をまったく買っていない。前に書いたと思うけど、中古のスーパーレジェーラを1脚だけ手に入れて、不思議なことにぼくの物欲と散財は突然治まってしまったのだ。

銀幕のインテリア

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  • 作者: 渡辺 武信
  • 出版社/メーカー: 読売新聞社
  • 発売日: 1997/10
  • メディア: 単行本


ゴースト ニューヨークの幻 スペシャル・デラックス・エディション

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  • 出版社/メーカー: パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン
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