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10. 郊外住宅の夢 [デザイン/建築]



郊外住宅の出現

 郊外住宅は産業革命後の社会に大量に出現する、専門職に就いた中産階級や労働者階級のための専用住居が建ち並ぶ地域である。今日では当たり前のこうした郊外住宅地は、実は19世紀以前には存在しなかった生活形式だ。職住分離の生活を送る勤め人の生活を成立させるものが郊外住宅地である。

 そうした住宅地に建つ建築のモデルは、ウィリアム・モリスの自邸「赤い家(1859 Red House)」だった。必要にして十分な大きさの独立専用住宅に居を構える生活が「赤い家」の生活イメージであり、それはそのまま私たちの近代社会のサラリーマンの生活のモデルとなったのである。「赤い家」の建築様式上の源泉は、中世の教師館と言われているが、そこでの生活イメージもまた、中世をかなり強く意識したものだった。

 郊外に住む人々は勤め人である。彼らは、通勤可能でありさえすればどこに住んでも構わない。彼らの通勤手段と所要時間、そして地価をベースとする住居費用が合成された関数値が、彼らの居住地なのである。19世紀末までは、公共交通機関はそれほど発達しておらず、交通費も割高だった。だから賃金の安い労働者階級は、工場に近い場所、あるいは住居条件の悪い土地柄にしか居を構えることができなかった。こうして、19世紀都市の旧市街地や工場周辺に労働者階級の街が形成されることになる。

 他方、上層中流階級は、経済的にも時間的にもより大きな自由度をもって住居を選択できた。そこで、旧世代の、貴族の田園生活や地主の居館のイメージを漂わせる庭つきの専用住居が彼らの生活の理想像として浮かびあがってくる。19世紀後半の都市のスプロールの裏には、こうした田園生活の理想も存在していた。そこに、ガーデン・サバーブ(Gaden sburb)という考えが生まれる。

 ガーデン・サバーブという言葉は「田園郊外住宅地」と訳されている。都市や町の外周部に位置する住居専用の地区であり、多少の商集積はあるももの、大半は住宅が建ち並ぶ地区である。

 ガーデン・サバーブの先駆は、1877年にロンドン西郊に開発された住宅地ベッドフォード・パーク(Bedford Park)と言われる。ここでは、その当時の新様式であったアン女王様式を用いた、洒落た住宅が軒を連ねていた。ここに、近代的な「通勤」という行動パターンが出現する。郊外での生活は、近代特有の出来事であることを銘記する必要がある。

 19世紀の末から20世紀の初期にかけて、田園都市(Garden city)という考え方が登場する。田園都市の理念にとって重要な役割を果たしたのは、エベネザー・ハワード卿と、その著書「明日の田園都市」である。彼は1903年に第一次田園都市会社をつくり、レッチワース(Letchworth)の町を建設し、1919年にはウェルウィン(Welwyn Garden City)の町を建設した。これらの町は二つともロンドンから汽車で一時間ほどの距離にあり、町には農地、緑地、工場を備えた半独立的な構成を持っていた。田園都市の考え方の根底にあったものは、生活がそこで完結する自立的な町づくりであった。この点で、田園都市とガーデン・サバーブは異なっている。

 わが国においても1907年(明治40年)に内務省地方局有志によって田園都市の概念が紹介されて以来、その概念はきわめて広汎な影響力を及ぼした。しかし田園都市が「花園都市」(1906 雑誌「斯民」1906年第一巻「花園都市と花園農村」井上友一)と訳されたように、それが農村的住宅地として把握・紹介された気味がある。これは都市住民を安定保守化するために農村的性格を導入しようとする、内務省上層部の農本主義思想と相まって定着していった概念であるように思われる。

 田園都市に見られる職住の一体となった新しい町づくりの考え方は、既に1880年にウィリアム・リーヴァー(William Hesketh Lever 1851-1925)という石鹸工場(現・ユニリーバ Unilever)主が自分の工場とともに建設したポート・サンライト(Port Sunlight, Sunlightは石鹸の商品名)の町や、チョコレート工場主のキャドバリー(George Cadbury 1839-1922)が建設したブーンヴィル(Bournville)のモデル・ヴィレッジに見られるものであった。このほか、ドイツの製鉄王アルフレート・クルップ(Alfred Krupp 1812-1887)は1861年から、ドイツのエッセン(Essen)郊外に自社の労働者住宅地を建設していたし、寝台車の発明家として知られるアメリカの車両製造業者ジョージ・プルマン(George Mortimer Pullman 1831-1897)もイリノイ州にモデル・タウン、プルマン(Pullman)を建設している。

 こうした田園都市に対して、ガーデン・サバーブはどのような特質を備えていたのか。それは、既存の都市に対する非独立性と非完結性だ。ガーデン・サバーブこそ、都市の郊外でありながら、都市そのものの性格をつくりあげる要素だった。ここには、近代的都市計画の最大の武器であるゾーニング(用途地域)の考え方が自然発生的に現れている。そこに生活する人々も、程度の差こそあれ通勤労働者である。地域的にも社会階層的にも、はっきりと色分けできる純粋要素としてガーデン・サバーブは存在していたのだ。

 ベッドフォード・パークに続くガーデン・サバーブの成果としては、1905年にロンドン北部に計画されたハムステッド田園郊外住宅地(Hampstead Garden Suburb)が有名だ。この計画は、レッチワースに田園都市を設計したバリー・パーカー(Richard Barry Parker 1867-1947)とレイモンド・アンウィン卿(Sir Raymond Unwin 1863-1940)の手によって設計された。

日本のガーデン・サバーブとTOD

 わが国で私鉄が沿線開発のために開発した住宅地は、田園都市思想の影響を受けたものと考えられがちであり、田園調布という名にもそれが感じられるが、すべてガーデン・サバーブである。田園都市として完結性を持つと都市はどうしても柔軟さを失う。それに対しガーデン・サバーブは都市周辺に無限に増殖していくことができる。

 住宅地の計画手法としては、放射状道路を大胆に導入した国立(1925 箱根土地)、放射状道路と同心円状道路を組み合わせた多摩川台(現・田園調布, 1923 田園都市)、放射状道路と楕円の環状並木道、部分的なクルドサック(袋小路)となるロータリーを多様に用いた常盤台(1937, 東武鉄道)など、これまでの格子状の道路割を脱した計画が数例見られたが、これらは学校、公園、町会を持つものはあっても、いずれも田園郊外都市なのである。

 東京の街は、鉄道路線沿いに市街地が広がり、駅を中心にさまざまな機能が集積している。こういう都市は公共交通指向型都市(TOD:Transit Oriented Development)と呼ばれている。例えば東急電鉄は、路線開発と同時に駅を計画して、駅を中心に周囲に住宅地を造成し、駅周辺にはショッピングエリアを開発するスタイルが主流だ。一方、商業施設や文化施設が集中しているターミナルの渋谷駅、東京駅、新宿駅は、駅周辺の土地を高度利用するために容積率を増やして都市の開発を進めてきた。これもTODのひとつのスタイルだ。こうした都市は公共交通の利用率が高く、駅から末端までは徒歩や自転車を使うため環境負荷は低い。その結果、交通部門から出る温暖化ガスの排出量も少なくなる特徴もある。

 都市と交通には相性があり、都市の構造や特長と交通機関とは密接な関係がある。典型はアメリカの西海岸で、ほとんどの市民はクルマを所有し、どこに行くのもクルマを利用する。動く範囲や自由度は大きいがクルマがないと動けない。また、人が集中し地価が上昇することを嫌うため、結果的に都市は広がり、人口密度が低くなるので公共交通機関も成立しない。人は歩いて移動しなくなるから、都市は、1ブロックが巨大な、フラットで薄くて大づくりな姿になる。実は、日本に限らず世界の多くの都市は、第二次大戦後は西海岸型の都市づくりを目指したと言っていい。

 ただ、街や交通の姿は歴史の影響を受けるため、「薄くて広くて大づくり」に向かおうとしても、そうならなかった都市もある。東京もその一つだ。戦後の東京の道路はまだ効率が悪く、国民は貧しくてクルマも持てなかった。首都圏では都市交通としての鉄道網が1930年頃からつくられており、そのため東京はアメリカ西海岸の都市のようにはならなかった。現在、東京は交通トリップの3~4割は鉄道で運ばれ、しかもそのシェアは年々増えている。近年、鉄道シェアが伸びているのは、先進国の大都市では東京だけだ。逆に、東京を始め日本の鉄道の大きな限界性は、民間企業が採算を前提に企業活動として運営されているため、今後、人口が減少すると収益性が下がり活動が限定されることだろう。

近代の住居

 ここで再び、近代の住宅地について考えてみよう。ガーデン・サバーブの魅力(つまり宅地の魅力)は、意外に抽象的なものである。宅地は家が建てられればよく、極論すれば、都市から交通手段の便利さと土地価格の関数として決定されうる。そこには、近代以前の集落に見られる土地の固有性、土地への愛着といったものは薄れている。宅地に対する情熱は、愛着と言うよりは執着であり、私権確保にのみ汲々とした形になりがちである。

 日本では、それは戦後どのように展開したのだろう。1963年7月に新住宅市街地開発法が公布され、大規模な住宅地が都市近郊に次々に建設されていく、その代表歴な例を挙げれば1964年に最初の入居を開始した大阪近郊の千里ニュータウン、1968年入居開始の名古屋近郊の高蔵寺ニュータウン、そして1971年に入居を開始した東京近郊の多摩ニュータウンがある。これらのニュータウンは大阪、名古屋、東京という日本の三大都市に対して近郊住宅地を提供するもので、英国のニュータウンのような自立的都市を目指すものであるよりも、大都市への通勤を前提とした巨大なベッドタウンであった。

 都市としての全体性を備えた計画としては、1963年に閣議決定された筑波研究学園都市があり、1969年に閣議決定された新全国総合開発計画がある。しかしながら、こうした計画にも関わらず、都市の地方分散はそれほど順調には進まず、それよりも大都市への人口集中、企業の都市集中の速度のほうがはるかに大きかった。1968年4月には東京・霞ヶ関に36階建ての「霞が関ビル」(設計・山下寿郎設計事務所)が竣工する。1963年に建築基準法が改正され、これまでの高さ制限が事実上廃止されて、容積制限に移行したことにより、超高層ビル建設への道は既に開かれていた。その第一号として霞が関ビルが竣工したことの意味は大きかった。大都市内に超高層ビルが林立するのはこれよりやや後のこととはいえ、霞が関ビルの出現によって大都市中心部の高密化は本格的にスタートする。

 そうした都市の高密化に対応するものこそ、千里、高蔵寺、多摩などのニュータウン建設だった。ニュータウンの住民たちは、その生活基盤を大都市に依存するサラリーマンたちであり、彼らの生活様式がわが国の標準的な生活イメージとなっていく。その実体は、家族との生活と会社での生活とが空間的にも時間的にも分断されたものであり、近代社会の職住分離の生活の典型であった。こうした生活は、世界のあらゆる都市に見られる。例えばフランスのデファンス地区(La Défense)、英国のミルトン・キーンズ(Milton Keynes)、そしてランコーン(Runcorn)などだ。

 しかしながら近代的な住居、それも高層の集合住居はなおさら、都市への愛着を生みにくい。その一つの例として、1972年7月15日に破壊されたセントルイス(St. Louis)の「プルーイット・アイゴー団地(Pruitt-Igoe)」がある。
 この団地はミノル・ヤマサキ(Minoru Yamasaki, 山崎實 1912-1986)によって1952年から55年にかけて建設された近代建築の一つの精華であった。しかしながらこの団地はやがて荒れ始め、犯罪の発生率の高い団地として知られるようになり、ついには取り壊すよりほかないと決定された。

 この団地では歩行者と車の交通が分離され、遊び場、洗濯場、託児所などが整然と用意され、近代建築の健康的な理想が満ち満ちていた。にも関わらず、そうした合理性があまりに抽象的で、実際の生活を満たしている曖昧な行動を受け入れることができなかったのである。この建物の破壊に、近代建築の理念の死を見る評論家もいるほどである。幸いにも日本では、こうした住宅の荒廃は今のところそれほど目立っては見られない。しかし、生活が近代建築を生み出す環境の下で極度に抽象的なものになっている事実は、自殺の名所と化した都市の高層団地に窺うことができるのかもしれない。

保存の町づくり──ゲニウス・ロキ

 近代住居の危機と並行するように、歴史的な都市を保存し、再び利用しようとする動きが盛んになってきている。

 英国のライ(Rye)、バース(Bath)、ヨーク(York)、エディンバラ(Edinburgh)、チェスター(Chester)、そしてドイツのローテンブルク(Rothenburg)、城塞都市ネルトリンゲン(Nördlingen)、イタリアのヴェネツィア(Venezia)、ボローニャ(Bologna)など、多くの都市が歴史を重視しながら新しい町をつくり続けているし、日本でも木曽の妻籠や愛知県の足助、そして倉敷や神戸などで同様の試みがなされている。

 こうした試みは、過去の建築遺産を大切に使い、保存するという文化事業であると同時に、あまりに抽象的・無機的になってしまった現代の都市生活に対する、ひとつの批判ともなっているように思う。

 現代建築家たちも、新しい建築を設計する際に、積極的に過去の様式を用いて、建築に過去からの連続性をもたせようとしたり、あるいは歴史的連想性を感じさせるデザインを考えるようになった。こうして、現代の町づくりは、今までの用途純化と近代建築万能の発想から、少しずつではあるが、新しい可能性に向かって変化してきた。都市や建物を保存するのも、昔の宝物にいっさい手を触れずに博物学的に残すのではなく、現代の生活をよりいっそう豊かなものにし、よりいっそう多様なものにするために保存する考え方に近づきつつある。

 これは、近代建築が「自己の意識によって世界を把握し、そのようにして意識的に把握された世界に意味を認める」態度をとってきたことに対する、大きな修正だった。そこに新しく現れてくる考えは、建築や都市は抽象的に建設されて土地の上に据え付けられるのではなく、その土地や環境から育つものだということである。そうした設計の発想法は、しばしば有機的な建築と呼ばれるが、その際には当然、土地そのものが持つ力が意識される。その時に行き当たるのが、ゲニウス・ロキ(Genius loci)という概念である、

 ゲニウス・ロキとはラテン語である。この言葉のうち、ゲニウスという語は、本来の意味としては、生む人。それもとくに父性を示すものであった。この言葉がやがて人を守護する精霊、もしくは精気という概念に移行し、さらには人に限らずさまざまな事物に付随する守護の霊というものにまで拡大して用いられるようになった。ロキというのはロコ(loco)あるいはロクス(locus)という言葉が原型で、場所・土地という意味である。

 つまり全体としては、ゲニウス・ロキという言葉の意味は土地に対する守護の霊ということになる。一般にこれは土地霊とか土地の精霊と訳される。しかしながら、これは土地の神様とか産土神といった鎮守様のようなものとも違う。



東京の地霊(ゲニウス・ロキ) (ちくま学芸文庫)

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水都ヴェネツィア

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東京―世界の都市の物語 (文春文庫)

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  • 作者: 陣内 秀信
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1999/05
  • メディア: 文庫



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11. フランク・ロイド・ライトと日本 [デザイン/建築]


アメリカ文化のアイコンとしてのライト

So long, Frank Lloyd Wright.
あなたの歌をもう聴けなくなるなんて、あまりに早すぎる。
ぼくには信じられないよ。やっと真実に出会えたのに。
(So long, Frank Lloyd Wright. 1969年。詞・ポール・サイモン)

 1月のプラハで「プラハの春」に抗議する学生が焼身自殺を図り、1969年は若者たちの体制への怒りと悲しみで幕を開けた。同年、アメリカの人気フォークロック・デュオ、サイモン&ガーファンクル(Simon & Garfunke)は、「本番前の人がいないホールで歌う時はいつも、小さく息を飲み込み、そしてあなたのことを思う」と、ある建築家への敬意をボサノバ調の曲にのせて歌う。その建築家とはフランク・ロイド・ライトだ。押し寄せるモダニズムの波に飲み込まれることなく、自らが信じた建築の姿を追求したライトの生き様を、彼らは自分たちの音楽観に重ねて歌った。

 20世紀の建築家が自国の紙幣や切手に登場した例はいくつもあるが、ポピュラー音楽に歌われた建築家はライトくらいではないか。

 これだけではない。1943年に出版されたアイン・ランド(Ayn Rand 1905-1982)の名作小説「水源(1943 The Fountainhead)」の主人公ハワード・ロークはライトがモデルであるとされ、1949年にはゲイリー・クーパー(Gary Cooper 1901-1961)主演で映画化(「邦題・摩天楼」)されている。小説「水源」は、アメリカでは販売累計700万部を超える超ロングセラーだ。1991年に初上演された、ダロン・ハーゲン (Daron Hagen 1961-)製作のオペラ「シャイニング・ブロウ(Shining Brow)」も主人公はライトだ。ライトの生き様は、建築という専門分野を超え、広くアメリカ人の心に染みわたっているようだ。

 フランク・ロイド・ライトは1867年にウィスコンシン (Wisconsin)に生まれた。この年の11月、日本では大政奉還が行われ、翌年に明治新政府が誕生する。日本近代化の始まりの年に彼は誕生し、やがて日本にもさまざまな影響を与えていく。

ライトと日本の出合い

 近代、欧米で急速に進んだ都市化は職住分離のライフスタイルをつくりあげ、人が住むための独立建築=「住宅」という新しい建築を生み出した。ライトが独立後の1890年代に手がけた「プレーリーハウス」と呼ばれる住宅建築は、水平のラインを強調した、低く大きな屋根が張り出す低層の建築だ。アメリカの広大な草原と造形的にも精神的にも融合した彼の建築は、アメリカ人の建築観も変えていく。西欧の古典建築の模倣ではない、アメリカ近代社会が求める新しい建築の形式を、彼はアメリカの原風景と言える美しい平原に示して見せたのである。有機的建築、ライトの建物はやがてこう呼ばれるようになる。

 若き建築家ライトの名声は高まり、彼のオフィスには月1件のペースで設計依頼が舞い込んだ。裕福な実業家の令嬢キャサリンとの間には6人の子どもに恵まれ、30代半ばのライトは公私ともに充実した日々を過ごしていた。1905年、彼はキャサリンとともに初めての海外旅行に出発する。目的地は、建築家修行時代に衝撃を受けた浮世絵の国、日本。ライトはこの旅で、人と自然と建物が調和し、ヒューマンスケールで空間構成される日本の建築を体験して、目指すべき有機的建築の本質を確信したという。

 順風満帆だったライトの名声が地に落ちたのは、日本旅行の前年に完成した個人邸の施主の妻、メイマーとの不倫の発覚だった。ともに離婚は認められず、ライトは1909年に事務所を閉鎖し、19年間連れ添ったキャサリンと6人の子どもを残し、メイマーとヨーロッパへ逃避行に旅立つ。このスキャンダルで彼の名声は地に落ちてしまう。帰国後、仕事は途絶え、ライトは故郷のウィスコンシンに戻り、メイナーと暮らす新居&スタジオ「タリアセン (1911 Taliesin I)」を設計した。救いの手を差し伸べたのは旧知の銀行家フレデリック・グーキン (Frederick William Gookin 1853–1936)だった。彼はライトに日本での仕事を勧める。

 アメリカで日本美術を扱う美術商だった林愛作(1873-1951)は「帝国ホテル」新館の設計者を誰にするかを、シカゴ社交界で知り合ったグーキンに相談していたのだ。このオファーは失意のライトの希望の光になった。彼は契約を獲得するために再び日本を訪れる。ライトはこの仕事に使命を感じていた。なぜなら彼は、近代化で変わりゆく東京の街を見て、西洋の商業主義が日本の文化に敬意を払わず、日本の建築界が形だけの欧風建築を建て続けることに憤慨していたからだ。

 アメリカに戻ったライトには久しぶりに大きな仕事の依頼があった。「ミッドウェー・ガーデンズ」である。わずか3カ月で、彼は建築から食器までをデザインした。しかし、その工事現場で壁画を仕上げていた時に悲劇は起きる。昼食中に使用人が「タリアセン」に火を放ち、最愛のメイナーを含む5人が惨殺された。新聞はこの猟奇的な事件をスキャンダラスに報じた。最愛の女性と自邸を失い、彼に残されたのは日本での「帝国ホテル」だけになってしまった。

 1914年、ライトは日本で「帝国ホテル」新館の設計プロジェクトに着手する。契約書には「自分の了承なしに設計変更はできない」という一文も加えられた。設計助手に着任したのは東京帝国大学出身の遠藤新 (1889-1951)。遠藤は帝大建築学科の大先輩、辰野金吾 (1854-1919)の「東京駅」を批判した(新橋と銀座の街の流れを断絶した。皇室入口を中央に設けたため一般利用者は不便を強いられた。機能と装飾が不一致である)、日本建築界の異端児だった。遠藤はライトを尊敬し、献身的な仕事で彼からの信頼に応えた。

 「帝国ホテル」の建築現場では、職人の手により大谷石に幾何学的な模様が刻まれ、手づくりのテラコッタタイルが持ち込まれた。日本には優れた建築職人が多く、その手を活かしライトはサリヴァン由来の理想の装飾を建築に採り込んだ。ライトは家具、食器はもちろんレターヘッドまでデザインしている。だが建設中に起きた本館の火災でライトの支持者が失脚すると、彼も1922年に帰国してしまう。仕事は遠藤らが引き継ぎ、ホテルは1923年に完成を迎える。

建築家遠藤新との共同設計

 帰国前にライトは、東京・目白の「自由学園」校舎(1921 現・「自由学園明日館」)を遠藤とともに設計している。ライトが弟子(遠藤)と連名で発表した最初の仕事である。

 自由学園を設立した羽仁もと子(1873-1957)、羽仁吉一(1880-1955 )は、大正デモクラシー期の自由教育運動を推し進めた教育者であり、1903年には、家計簿奨励,衣食住の合理化,家族関係の民主化など,家庭生活の実際的改良を提唱する婦人誌「家庭之友」(現・「婦人之友」)を創刊する出版人でもあった。ライトには「貧富の別なく人間は豊かな住生活が保障されるべきである」という思想があり、十分な予算はなかったが、迷うことなくこの仕事を引き受ける。帰国を控えたライトは最終図面のサインを遠藤との連名にして、ライトと遠藤新の作品として国内外に発表するよう彼に伝えたという。自分の帰国で独立を余儀なくされる遠藤への餞だったのだろう。

 ライトは1921年の自由学園開校を祝して次のような言葉を贈った。
 「その名の自由学園にふさわしく自由なる心こそ、この小さき校舎の意匠の基調であります。幸福なる子女の、簡素にしてしかも楽しき園。かざらず、真率なる。(中略)生徒はいかにも、校舎に咲いた花にも見えます。木も花も本来一つ。そのように、校舎も生徒もまた一つに」。

 なお、1931年に山室光子(1911-1999)と笹川和子(1910-2001)が自由学園からヨーロッパに留学生として派遣され、1932年にはベルリンの「イッテン学校(1926 Itten Schule)」で、ヨハネス・イッテンから美術工芸の基礎教育を学んだ。2人は帰国後、自由学園工芸研究所を設立し、現在もイッテンの教えをもとに工芸品製作を行っている。

 遠藤新はその後、関東大震災の復興に尽力し、林愛作とともに「甲子園ホテル(1930 現・武庫川女子大学甲子園会館)」を完成させると、日本を離れ満州へと渡る。竣工した「甲子園ホテル」の写真をライトに送ると、間もなく「指導者が誇りに思う多くの仕事をなしとげた」と書かれた返事が遠藤に届いた。ライトは手紙で「これを評価できるのは自分だけだ」と愛弟子の仕事を讃えた。

 ライトの手紙は、自分の設計思想を受け継いだ遠藤の仕事だからこそ、自分だけが評価できると理解するのが正しいのか。実際には別の読解も可能だ。1930年代の建築界はモダニズムが台頭し、近代建築家たちは、過去や土地の記憶と断絶した、床が物理的に重なりあう抽象的な建築スタイルを推し進めようとした。時代は世界恐慌下で、安価で合理的な建築が求められた理由もある。いずれにせよ、自然や風土と調和し、多様なスケール感を内包するライトの建築スタイルは時代遅れになっていたのである。愛弟子が設計した「甲子園ホテル」はライト・スタイルを彷彿とさせる有機的な建築であった。

 ライトが帰国してからの10年間、彼はアメリカの建築界から冷遇され、わずか5件の設計を行っただけだ。
 それでも彼は非人間的で自然に背を向ける建築や個性の喪失を嘆き、自分の設計思想を押し通し続けたとされる。そして彼は、1937年に竣工した「カウフマン邸」の圧倒的な存在感で、モダニズムの流行に迎合していた人々を黙らせた。69歳のことだ。

 ライトの事務所に打ち合わせに向かった施主の百貨店経営者エドガー・カウフマン(Edgar Jonas Kaufmann 1885-1955)は、途中、1時間ほどで到着するとライトに電話を入れる。ライトはそれから一気に基本プランを描き上げたと言われている。この建築は、カウフマンの週末の別荘として、ピッツバーグ郊外に完成、滝の上に突き出した岩の上に建てられ、その特長から「落水荘」と呼ばれている。70代を迎えたライトの代表作であり、長年、凋落していたライトの名声を取り戻した作品でもあった。

 一方、第二次対戦直後の日本。満州で心臓発作に倒れ行方不明だった遠藤新は着の身着のままで1946年に帰国を果たす。彼が見たのは戦火に見舞われた無残な東京の姿で、大切に保管していたライトの資料はすべて焼失していた。

 1947年5月、入院中の遠藤を突然2人のアメリカ軍人が訪ね、当時は大金の250ドルが手渡された。ライトからの見舞金で、遠藤夫妻がアメリカに来るのなら保証人になると記された証書が添えられていた。しかし、彼はアメリカには行かず、文部省学校建築企画協議会員として、戦後復興の日本で学校建築の指導を行うことを選ぶ。戦後の日本の学校建築にもライトの精神が宿っていたと言えるかもしれない。

 細部まで統一した意匠でつくり込まれる、遠藤のライト・スタイルの住宅設計には批判もあった。建築家の山本拙郎(1890-1944)は、遠藤の住宅思想には居住者の自由がないと批判、遠藤新との間で「拙新論争」と呼ばれる論争に発展したことも付け加えておく。
 ライトの建築観として、1910年にヨーロッパで発行された彼の作品集の序文(抜粋)を紹介しよう。
 「有機的建築においては、建築をひとつのこととみ、家具調度をいまひとつのこと、そうして、位置と環境をさらにいまひとつのこととみることは、けっしてできない。有機的建築の構想の精神は、こういったことをすべて共通して、ひとつのものとみる。すべて、あらかじめ慎重に計画され、建物の性質に適合するようにつくられるのでなければならない。これらのものは、すべて、もっぱら建物の性格と、完全さの個別的なあらわれとなるのでなければならないだろう。照明、暖房、換気装置は、造りつけ(または分離した装置)にされる。机や椅子や戸棚でさえ、また楽器ですら──演奏されるような場合には──建物自身に属するものであって、けっして単にあとで入れられるにすぎないような調度品ではない……。
 かくて、人間の住む場を完全な芸術作品とすること、つまり、それ自身表現豊かで美しく。近代生活と密接なかかわりをもち、住まうのにふさらしいような芸術作品にすること、いいかえれば、いっそう自由に、そして適当に、そこに住む人の個人的要求を尊重しながら、それ自身ひとつの調和あるものであるような芸術作品、色彩や形象や性質において必要な要求と調和し、その性格にしたがって、ほんとうにその表現となっているような芸術作品とすること──それは、近代アメリカの、建築における、大きなチャンスである。」

日本におけるフランク・ロイド・ライトの影響

 「帝国ホテル」建て替え計画が発表され保存運動が起こった時に、ライトは次のように述べている。「私は帝国ホテルを救うためには何もしない。このホテルは私が愛して多くを学んだ高貴な国に捧げたものだ。いやしい商売の神が日本の文化の神々より良いというなら、その死を悼むだけだ」。
 ライトが設計した新館は、1968年に新本館建設のため解体された。

 日本は北米大陸以外でライトの作品が残る唯一の国である。フランク・ロイド・ライトは日本の建築に大きな影響を与えたが、それは4つに整理できる。

 まず「帝国ホテル」の設計でライトとともに働いた日本人建築家への影響だ。当時ライトの下には彼を敬愛する若手建築家たちが集まった。愛弟子の遠藤新、柴田太郎(1901-1984)、音楽家でもあり、札幌新交響楽団の創立者で初代指揮者も務め、北海道に多くの作品を残した田上義也(1899-1991)、構造設計家の南信(1892-1951)らは、ライトの思想に基づく有機的な建築を手掛け続けた。

 二つ目はアメリカでライトに直接建築を学んだ日本人。土浦亀城(1897-1996)と土浦信(1900-1998)は、帰国後にインターナショナルスタイルの自邸(1935)を建てるが、内部の空間構成は「帝国ホテル」の影響も色濃かったと言われている。戦後、有機的建築思想の伝道師となり、教育者として多くの建築家を育てた天野太郎(1918-1990)、岡見健彦(1898-1972)もライトに学んだ日本人建築家だ。遠藤新の息子・遠藤楽(1927~2003)はライトの薫陶を受けた最後の日本人だった。彼は1957年に渡米し「タリアセン」でライトに学ぶ。

 三つ目は「帝国ホテル」の影響を受けた建築家たちだ。「旧・新橋演舞場(1925)」や「大日本麦酒本社(1934)」を設計した菅原栄蔵(1892-1967)、「旧・総理大臣官邸(1929)」を設計した大蔵省営繕管理局(当時)の下元連(1888-1984)などがいる。「大日本麦酒本社」は1978年に取り壊され、内装の一部が「銀座ライオン7丁目店」に残されている。

 最後に、「帝国ホテル」のプロジェクトで、ライトのアシスタントとして来日したアントニン・レイモンド(Antonin Raymond 1888-1976)、ノエミ・レイモンド(Noémi Raymond 1889–1980)からの影響。オーストリア領ボヘミア地方(現・チェコ)に生まれ、プラハ(Praha, Prague, Prag)で建築を学んでいたアントニンは、ドイツで出版されたライトの作品集に衝撃を受け渡米してタリアセンを訪ねる。戦後、ライトの下を離れ日本に事務所を設立するが、レイモンド夫妻には、好む好まざるに関わらず「ライト」の名前が付いてまわった。レイモンドの事務所では前川國男、吉村順三(1908-1997)、ジョージ・ナカシマ(George Katsutoshi Nakashima 1905-1990)が研鑽を積んだ。

 日本のフランク・ロイド・ライト研究では、フランク・ロイド・ライト研究室を主宰する谷川正巳(1930-)が第一人者として知られている。

冒頭の歌詞の原文

So long, Frank Lloyd Wright
I can't believe your song is gone so soon
I barely learned the tune
So soon
So soon

I'll remember Frank Lloyd Wright
All of the nights we'd harmonize till dawn
I never laughed so long 、
So long
So long

Architects may come and
Architects may go and
Never change your point of view
When I run dry
I stop a while and think of you

Architects may come and
Architects may go and
Never change your point of view

So long, Frank Lloyd Wright
All of the nights we'd harmonize till dawn
I never laughed so long
So long
So long

「So Long, Frank Lloyd Wright」
P. Simon, 1969



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12. シンプリシティとは何か [デザイン/建築]


近代デザイン、シンプリシティを発明する

 シンプリシティとはつくられた美意識である。
 宮廷文化が華やかさを競う時代、美術装飾家たちは「自然」を手本に美を紡ぎ出していた。自然とは人智を超えた神の仕事であり、手間と時間をかけて、それらの複雑さを素直に模倣することで、美の価値を手に入れようとしていた。この時代には「シンプル」という価値は一般にはなく、神の愛は誠実な仕事に宿ると信じた、一部の清教徒の暮らしなどに、規律としての「簡素さ」がひっそりと尊ばれていた。

 西欧社会で「デザイン」が、シンプリシティという新しい価値を発見するのは19世紀末以降のことだ。例えば、北欧デザインは、純真な清教徒の生活道具や、17世紀からつくられていた簡素な大衆家具ウインザーチェア(Windsor chair)などに合理性を見出し、それを追究することで、美しい日用品の伝統の礎を築いた。簡素化による習作の歴史が、北欧独自のシンプリシティを磨き上げていった。
 清教徒の生活道具とは19世紀アメリカのシェーカー教徒の家具である。

 1774年、イギリス・リバプールを出港したマリア号は約3ヶ月の航海を経てニューヨークに入港する。神の啓示を受け新大陸アメリカに渡ったアン・リー(Ann Lee 1736-1784)と7人の信者。彼女らがシェーカー教団を築いた先人たちだった。シェーカー教徒(Shaker)たちの長い旅の始まりは、ナントの勅令廃止(1685)でプロテスタントが礼拝の権利を剥奪されたことに遡る。彼らはフランスからイギリスに渡り、その精神を受け継ぐアン・リーが大西洋を越えた。シェーカー教徒たちはアメリカ東海岸に共同体をつくり、宗教的な規律の下で自給自足の生活を送るようになる。そこでつくられた生活日用品としての家具が、現在ではシェーカー家具(Shaker furniture)と呼ばれているものだ。

 虚飾を戒め、暮らしの理に適った道具をつくること。シェーカー教徒たちは神の愛は自らの労働の誠実さにおいて表現されると信じていた。それは図らずも近代デザインと同じ地平を見つめていたことになる。社会に殉じるか、自らの祈りに殉じるか。「神」の居場所が違っていたに過ぎない。シェーカーの家具や建築が湛えるシンプリシティは、20世紀のデザイナーに大きな影響を与えた。日本では、1970年大阪万博アメリカ館の展示で広く知られることになる。

 一方、中欧の美術家たちは、自然を超越した普遍的な精神世界を、具象と偶然を排した、色とラインと幾何学による「抽象芸術」で表現し、人々や社会に衝撃を与えた。その代表的なグループが、1917年にオランダで発行された芸術雑誌「デ・スティル(様式)」に参加した抽象芸術家たちだ。

 デ・スティルの作家は、彫刻や絵画だけではなく、彼らが目指す普遍的な世界を、生活空間や建築にも表現しようと活動の範囲を広げていった。黎明期のモダンデザイナーは、簡素さやフォルムの合理性とは違う、新時代の先鋭的な造形「シンプル」を、そうした抽象芸術の中に発見する。デ・スティルの作品でよく知られているのは、水平と垂直、三原色だけを用いたピエト・モンドリアン(Piet Mondrian 1872-1944)の抽象絵画、コンポジション(Composition)のシリーズだろう。デザインとしては、オランダ・ユトレヒト(Utrecht)の建築家・デザイナーのヘリット・リートフェルトは、世界遺産に選定された住宅「シュレーダー邸」や、三原色と無彩色の平板+角棒だけで構成される椅子「レッドアンドブルー(1918 Rood-blauwe stoel, Red and Blue Chair)」が知られている。

 オランダで起こったこの過激なムーブメントは、1931年、雑誌廃刊とともに自然消滅し、中欧を席巻した新造形の激流は10数年で渇水してしまう。

ウムル造形大学とディター・ラムス

 1919年に開学したバウハウスは、デ・スティルの影響で、表現主義から幾何学構成主義へと教育方針を転換していった。機械的な法則に基づき細部まで一貫された造形には、新しい法則と魅力が生み出される。1928年にグロピウスの後継として校長を務めたスイス人建築家ハンネス・マイヤー(Hannes Meyer 1889-1954)は、規格化・数値化・計量化を重視し、合目的性・経済性・科学性を徹底させた。これは「バウエン」(Bauen)と呼ばれ、1930年に校長に就任するルードヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエにも多大な影響を与える。これによりドイツ表現主義的な審美性は無くなり、美術に代わり「形成」を意味するGestaltungが、学内での造形活動・行為に用いられた。後期バウハウスが到達した、情緒と偶然に委ねない理性と科学がつくる「シンプル」は、大戦中、退廃芸術として自然主義のナチスドイツの弾圧を受け、バウハウスも閉校に追い込まれるが、敗戦後の1953年、旧バウハウスの教育理念を継承するウルム造形大学(Hochschule für Gestaltung Ulm, HfG)として、南ドイツのウルムに再生する。大学名にはバウハウスで造形に用いられていたGestaltungが使われている。初代校長には、バウハウスに学んだ建築家・デザイナー・彫刻家のマックス・ビル(Max Bill 1908-1994)が招聘された。敗戦国の戦後の新制大学を象徴するモダンデザインの「法政大学新校舎53年館」が、大江宏によって建てられた同年、マックス・ビルの設計によるインターナショナルスタイルの「ウルム造形大学校舎」も完成している。

 ウルム造形大学は、インダストリアルデザイン、建築、視覚芸術、報道の4学科、4学年の構成でスタートする。

 同大学では現在のデザイン教育の原型とも言えるウルムモデルズ(Ulm models)が開発され、インダストリアルデザインの専門課程からは、ブラウン(Braun)の電気製品、ローゼンタール(Rosenthal)の食器、ハンス・グジェロ(Hans Gugelot 1920-1965)、ヘルベルト・リンディンガー(Herbert Lindinger 1933-)らによるハンブルク地下鉄(U-Bahn Hamburg)など、戦後ドイツを代表するデザインが生み出された。企業のコミュニケーションのツールとなるロゴマークやそのアプリケーションを考えるCI(Corporate identity)デザインも、ウルム造形大学生まれのデザイン思想である。大学設立にも関わったデザイナーのオトル・アイヒャー(Otl Aicher 1922-1991)は、ウルムでヴィジュアル・コミュニケーション・デザインの概念を築き、ルフトハンザ(Lufthansa)、ブルトハープ(Bulthaup Küchen)、エルコ(ERCO)、ブラウン……などのCIを手掛け、ミュンヘンオリンピック(1972 Munich Olympics)のピクトグラム(DOT pictograms)のほか総合デザインを担当している。

 1956年に、ブラウンのプロダクトデザインの責任者となったディーター・ラムス(Dieter Rams 1932-)は、ブラウンとウルム造形大学とのデザイン協働プロジェクトを推し進めた中心人物でもあった。彼のデザイン理念は、バウハウス由来のウルムの教育方針に共鳴し、後に「グッドデザインの10原則(Ten principles for good design)」として表明され、世界中の工業デザイナーにとっての金言となる。その10番目に挙げられた原則は「(グッドデザインは)できるだけ少ないデザインであること(Is as little design as possible)」。曰く「シンプリシティは洗練への鍵である」。
 ミース・ファン・デル・ローエが、近代建築のを「Less is more(より少ないことがより豊か)」と語ったのに対し、ラムスが自分のデザインを表した言葉は「Less but better(より少なく、ただしより良く)」。求められる機能に不要な要素を厳格に削ぎ落とした引き算のデザインは、静謐で整えられた日本庭園のような美に到達した。ウルム造形大学は世界のデザイン教育に多大な影響を与え、1968年に15年間の歴史を閉じた。

ミッフィーのルール

 「ナインチェ・プラウス(Nijntje Pluis)」の絵本は当初、赤、黄、青、緑の4色だけで描かれていた。

 その後、子犬や熊、象のために茶色とグレーの2色が追加される。15.5センチの正方形に、6色で描かれた絵が12ページ。絵と見開きの左ページには4行のテキスト。「ナインチェ・プラウス」の絵本は、この定型のフォーマットで50年以上描き続けられた。英名はミッフィー(Miffy)。真っ白な紙の余白を生かし、白い正方形の中にキャラクターをちんまりと配する構図も特徴だ。そこに繰り広げられるのは、ミニマリズムや抽象芸術の禁欲さではなく、鮮やかな色彩と、わずかに手作業の痕跡を残す力強いラインがつくる、世界中の子どもに愛された、シンプルで生命感にあふれた小世界だ。

 「ナインチェ・プラウス」の作者であるオランダの絵本作家、ディック・ブルーナ(Dick Bruna 1927-)は、グラフィックデザイナーとして2000冊を超える書籍の装丁やポスターなども手がけている。彼は、リートフェルトの「シュレーダー邸」が完成して間もなく、1927年にユトレヒトに生まれ、少年期にレンブラントの絵画に惹かれ10代半ばから画家を志した。当時。水彩で描かれたロマンチックな風景画を数多く残しているが、一方で、モンドリアンを始めとするデ・スティルの絵画には、まったく興味がなかったらしい。

 第二次世界大戦後、父が経営する出版社を継ぐためロンドンとパリに修学に出かけたブルーナは、修業先のパリで、色彩を心象の表現とするアンリ・マティス(Henri Matisse 1869-1954)のフォーヴィスム(Fauvisme)の作品や、太い輪郭線と色で描くフェルナン・レジェ(Fernand Léger 1881-1955)の絵画に出合う。対象をシンプルに明快な色彩で描く彼らの技法は、ブルーナに大きな影響を与え、父の出版ビジネスより、創作活動への想いが高まっていく。同時に、かつては何の魅力も共感も感じなかったモンドリアンが、三原色のコンポジションの世界に到達した意味にも気づいたという。幼少の頃に巨匠リートフェルトのシュレーダー邸を見て育ったブルーノにとって、デ・スティルはデザインの原風景でもあり、パリで感銘を受けたマティスの色とレジェのライン、自身の中に眠っていたデ・スティルのエレメンタリズムは、その後のディック・ブルーナのシンプルな創作を生み出す絵筆となる。

 「絶対に絶対に描きすぎてはいけない、複雑にしすぎてはいけない」。「完璧であるだけでなく、できるだけシンプルを心がける」。

 リートフェルトは生前、ユトレヒト旧市街のブルーナのスタジオを何度も訪ねていた。要素と色で世界を純化して捉えるブルーナに視点に、デ・スティルの末裔を見ていたのかもしれない。使用する色を絞り込み、見る者に明快なイメージや安定感を伝える手法は、今日のコーポレートカラーやブランドカラーの考え方にも通じる。





A5/06: HfG Ulm: Concise Hisotry of the Ulm School of Design

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Die Hochschule für Gestaltung Ulm / The Ulm School of Design

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Dieter Rams: As Little Design as Possible

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Dieter Rams: Ten Principles for Good Design

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Dieter Rams: Zehn Thesen fuer gutes Design: Dieter Rams

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13. ポスト・モダニズム宣言 [デザイン/建築]


モダニズムの終焉

 ポスト・モダニズム (Postmodernism) 、あるいはポスト・モダン(Post-Modern)という言葉は、ずいぶん幅広く使われてきた。この言葉を最初に使ったのは英国の建築評論家チャールズ・ジェンクス(Charles Alexander Jencks 1939-)で、彼自身はその定義を著書「ポスト・モダニズムの建築言語(1977 The Language of Post-Modern Architecture)」の中で次のように語っている。翻訳を手掛けたのは建築家の竹山実(1934-)だ。

 「ポスト・モダニズムの建築とは、もし手短な定義が求められるなら、一度に少なくとも二つのレベルで語りかける建築ということになるだろう。つまり、一方では、他の建築家および建築の意味に特別に関心をもつ少数の関係者に語りかけ、そしてもう一方では、快適性とか伝統建築とか生活方式に関する問題に注意を払う一般大衆あるいは地域住民に語りかける。だからポスト・モダニズムの建築は混成的(ハイブリッド)に見えるだろう」。

 この定義は、それだけを読んでもなかなか分かりにくい。そこで、まずこうした定義の解釈の前に、文字通りの意味としてポスト・モダンという言葉から考えてみよう。

 ポストというのは「後」ということである。ポスト・ウォーと言えば戦後のことであるし、絵画でポスト・インプレッショニズムというのは(後期印象派と訳されているけれど)印象派の後に起きた絵画のことである。だからポスト・モダンというのは、建築の面で言えば近代建築以後の建築ということになる。

 一般に私たちは近代建築という言葉で20世紀の建築を定義しているが、それを近代建築=Modern Architectureよりも、Modern Movement、あるいはInternational Modern、Internatinal Styleという言葉で表現されるほうが多い。つまり、近代芸術運動の所産としての建築であるという捉え方が一般的なのだ。運動には始まりがあり、盛期があり、終わりがある。事実、モダンとか近代という名の冠せられた言葉の多くは、現在では既に一時代を画した歴史的概念に近づきつつあるのに気づく。モダン・ジャズ、モダン・バレエ、モダン・ペインティング、近代劇、近代文学、近代批評など、現在の目から見ると一種懐旧の情を誘うような雰囲気を醸し出す。

 近代建築もその運動としての成果を既に上げてしまったのである。20世紀初頭の近代建築運動は、デモクラシーの時代の建築、工業化時代の建築を目指して、機能主義的な建築理論と、機械のイメージをモデルとする表現を追究してきた。そこでは、建築の構造、構成、表現は、明快に理想像を指し示さなければならなかった。その近代建築運動が世界的に認知され、世界を制覇するのが、第二次世界大戦後である。戦後の社会に要求される経済性、合理性、そして実利主義に相応しい建築として、近代建築運動の成果は広く世界に受け入れられた。国際様式は文字通りの国際様式になったのである。

 近代運動がその成果を上げてしまうとともにCIAMも1956年に解散してしまう。その後、日本の若い建築家たちがメタボリズム・グループ(Metabolism)という運動を起こす。

 メタボリズム・グループは1960年に結成された。メンバーの中には建築家として浅田孝(1921-1990)、菊竹清訓、黒川紀章(1934- 2007)、大高正人(1923-2010)、槇文彦(1928-)、デザイナーとして粟津潔(1929-2009)、榮久庵憲司(1929-2015)、評論家として川添登(1926-2015)らがいた。
 メタボリズムという名は、代謝を意味する生物学用語であり、この名前を選んだことにこのグループの意義が表されている。

 メタボリズム・グループが掲げた建築イメージは、近代建築を成立させてきた機械イメージによるものではなく、生物学的イメージ、生物とのアナロジーによる建築であった。建築を人体のアナロジーとして捉える方法、身体比例を建築の基盤とする方法は古代からあったが、メタボリズムという生体の代謝のメカニズムを建築の理念に据える発想は彼ら独自のものだった。

 これに少し遅れ、英国ではアーキグラム(Archigram)というグループが活動を開始した。このグループはピーター・クック(Peter Cook 1936-) ら6人の若い建築家たちが集まって結成したもので、メタボリズム・グループ以上に、過激に都市の要素の差し替えを主張したプラグ・イン・シティ計画(1964 Plug-in-City)などを発表した。

 こうした動きは、現代建築の終焉とともに、建築をより即物的に、よりロボット的に表現する方向に向かうプロセスだと言っていい。

 このプロセスをもっともよく示す出来事が、1970年の大阪での万国博覧会だった。万国博覧会の会場設計は、丹下健三によってまとめられたが、実際の展示施設の多くは60年代のメタボリストたちによって設計された。英国のアーキグラムの建築的ヴィジョンを実現したかと思われる「エキスポタワー」は菊竹清訓の設計であったし、「タカラ・ビューティリオン」と「東芝IHI館」を設計したのは黒川紀章であった。特に黒川紀章は彼の説くカプセル建築を「タカラ・ビューティリオン」に実現してみせて話題を集めた。メタボリズム・グループの中でもっとも若い建築家であった彼は、それまでは習作的な小作品を発表していたが、この万国博覧会での試みにより一躍前衛建築家として地歩を固めることに成功した。彼の建築に現れる技術至上主義ともいえる表現は、前衛建築表現を社会に受け入れさせる上で重要な要素である「わかりやすさ」を備えており、社会全体の未来像を描く彼の姿勢と相まって、彼の名を映画スター並に有名なものとした。

 この万国博覧会で前衛建築家としての地歩を固めたのは黒川紀章ひとりではない。磯崎新(1931-)は丹下健三の弟子として、万国博覧会の中心的基幹施設である「お祭り広場」の初装置を設計する。ここにも英国のアーキグラム的なヴィジョンが見出されるが、この万国博覧会の建築イメージはアーキグラムからの借用というより、1960年のメタボリズム・グループのイメージの延長上に実現されたものなのである。

 この万国博覧会の会場には、レンツォ・ピアノ(Renzo Piano 1937-)によって設計された「イタリア工業館」が見られたが、彼は後にリチャード・ロジャース(Richard George Rogers 1933-)とともにパリに「ポンピドゥー・センター(1976 Centre national d'art et de culture Georges-Pompidou, Pompidou Centre)」を設計する。「ポンピドゥー・センター」が竣工した時に、日本の建築家の多くは、この1970年の大阪万国博覧会の建築群のイメージの反映を感じたのである。

 しかし、建築を即物的に構成し、技術至上主義的に表現することによって未来を示すことができるという楽観主義は、1974年のオイルショック以後、急速に色あせたものになっていく。1968年のパリ五月革命に代表される学生運動も、先進諸国が単純に社会の進歩を信じることに対する、大きな意義の申し立てであった。建築の表現も、既に機能や構造を正直に表現すれば、社会の理想を表現できるというものではないと考えられるようになってきた。機能主義建築という理念が大きく揺らいできたのである。そこに新たに現れたのが、ポスト・モダニズムの建築であった。

ポスト・モダンの表現

 ポスト・モダニズムの建築は、機能や構造をストレートに表現の道具にするのではなく、文化的な意味を伝達するための表現を目指す。だから構造的にもデザイン的にも、一見、復古的な形をとる。
 雑誌「Progressive Architecture (P/A) 」編集長だったジョン M. ディクソン(John Morris Dixon 1933-)は次のようにポスト・モダニズムの建築を記述している。

 「細部はともあれ全体の形は歴史性をもったものであり、伝統的な耐力壁構造に窓が穿たれ、室内も流動性のあるオープンスペースではなく、部屋に区切られるのが特徴で、そこには複合性とともにアイロニー、曖昧さ、そして機知が込められるのである。(中略)ポスト・モダンとは過去の伝統によってデザインし、古典主義や地方性をもった建築言語を応用し再構築するものである。ペディメント(軒破風)、円柱、花綱飾り(花輪のような形の壁面装飾)、繰形が抽象化されたり再構成されて新しい相関関係のもとで用いられる。装飾やテクスチュアも重要となる。そして1920年代から30年代にかけての様式である流線形の『モダン・スタイル』や『アール・デコ』を感じさせる造型が現れる」(Progressive Architecture, P/A, 1983, Jan)。

 ここに述べられる特徴が、ポスト・モダニズムの建築をかなり的確に言い表したものであることは事実だが、こうした造形を生み出す意識が、単に復古的な懐古趣味でないという点を十分に理解しておかなければならないであろう。歴史性をもった装飾やモティーフは、ある意味では現代における時代錯誤である。それがアナクロニズムであることを承知の上で、ひとつのフィクションとして建築表現に用いようとするのが、ポスト・モダンの意識である。

 機能や構造をストレートに建築表現に結びつける意識には、社会の要求する機能を率直に表現することが建築の責務であると考えるような、倫理的使命観と、社会の進歩と発展を信ずる未来観が横溢していた。その楽観的社会観に疑念が生じた時、もう一度建築が与える夢を考え直したいというポスト・モダニズム的発想が目覚めるのである。

 したがってポスト・モダニズムの建築の表現を与える意識は、近代主義の楽天性に対する苦い反省と、建築にフィクションを回復しようとする優しさとが、裏表のように同居することになる。建築に持ち込まれるモティーフも、歴史的なモティーフを皮肉と優しさを同時に込めて用いるものになる。

 ポスト・モダンの建築のうちから、大きな影響力と成果を上げた作品を採り上げるならば、まずフィリップ・ジョンソン(Philip Johnson 1906-2005)設計の「AT&T本社ビル(1984 AT&T Building, 現・ソニービル Sony Tower)」、マイケル・グレイヴス(Michael Graves 1934-2015)設計の「ポートランド公共ビル(1982 Portland Public Service Building, Portland Building)」、リカルド・ボッフィル(Ricardo Bofill Leví 1939-)設計のパリ郊外マルヌ・ラ・ヴァレ(Marne la Vallée)の集合住宅(1983 Les Espaces D’abraxas)をもって代表させていいであろう。

 「AT&T本社ビル」はチッペンデールの家具と評される頂部が、「エンパイアステートビル」や「クライスラービル」に代表される1920年代から30年代にかけての摩天楼を思わせるとして話題を呼んだのだが、そこには、企業の顔として、科学や技術(つまりは機能主義や構造の表現)の非人称的普遍性を抜け出た、文化的連想性を表現しようとする姿勢が見られる。

 アール・デコ的なモティーフを用い、大胆なリボン装飾を壁面に配した「ポートランド公共ビル」も、基本的に同種のメッセージを発生させようとする建物である。

 リカルド・ボッフィル設計のマルヌ・ラ・ヴァレの集合住宅は、ローマ風の壮大な建築構成をコンクリート・プレファブでつくりあげたもので、これまでの集合住宅が衛生思想と平等思想によって供給されてきたことに対する、強烈なアンチテーゼとなっている。

 さらに、マルヌ・ラ・ヴィレの集合住宅には、マノロ・ニュネズ・ヤノヴスキー(Manuel Núñez Yanowsky 1942-)設計の建物も建設されている。「プラス・パブロ・ピカソ(1985 Arènes de Picasso)」という名のこの建物は、コンクリートの部材を組み上げてつくった巨大なシリンダー状の建物であり、現代建築の表現の自由度がどれほど大きいものになっているかを教えてくれる。

 アメリカの建築家チャールズ・ムーア(Charles Willard Moore 1925 -1993)が1978年につくったニューオリンズ(New Orleans)の「イタリア広場(Piazza d'Italia)」も、池にイタリア半島の形を浮かべ、イタリア・ルネサンスで用いられた古典主義建築の柱をステンレスやネオン・サインでつくるという冒険を行った。ここには歴史的連想性を軽く洒落のめそうとする洒脱さがある。ジェームズ・スターリング(Sir James Frazer Stirling 1926-1992)もシュトゥットガルトに建つ「シュターツギャラリー新館(1984 Neue Staatsgalerie)」、そしてハンス・ホライン(Hans Hollein 1934-2014)設計のウィーンに建つ「オーストリー旅行代理店(1979 Österreichisches Verkehrsbüro)」など、数多くの新しい建築が世界にその姿を現している。

 また、建築だけでなく、インテリアや家具デザイン、テキスタイルデザインの分野でも、エットレ・ソットサス(Ettore Sottsass 1917-2007)を中心としたデザイナー集団メンフィスは、機能主義やモダニズムの禁欲的なデザイン、グッド・テイストに疑問を持ち、ポスト・モダン的な新しい表現を模索し続けた一大デザイン・ムーヴメントとなった。ソットサスはメンフィスのデザインを「新たなインターナショナル・スタイル」と呼んだ。

 日本で、こうした新しい傾向の建築を探すならば、1972年に毛綱毅曠(1941-2001)が北海道の釧路市に設計した住宅「反住器」や、1975年に石山修武(1944-)が設計した、愛知県の別荘「幻庵」などが挙げられるであろう。石山は1984年には伊豆の松崎に「伊豆長八美術館」を設計して、伝統的な左官技術を前衛建築に対峙させた。

 磯崎新は1983年につくば学園都市に「つくばセンタービル」を完成させた。彼はここで、ミケランジェロがつくったローマのカンピドリオの広場の写しをつくり、ハンス・ホラインがウィーンで試みた金属製の樹木の姿を思わせる彫刻──ホライン自身がウィーンの伝統やナッシュ(John Nash 1752-1835)の18世紀の試みをもじっているのだが──を配し、チャールズ・ムーアがニューオリンズにつくったイタリア広場に似た水の流れを流した。建物内部は石と木とパステルカラーがさまざまに用いられ、外壁は石とコンクリートがジュリオ・ロマーノ(Giulio Romano 1499-1546)やクロード=ニコラ・ルドゥ(Claude Nicolas Ledoux 1736-1806)を意識して用いられる。ここにはルネサンスからマニエリスム(Manierismo, Maniérisme, Mannerism)、そして現代建築の手法に対する引用、もじり、反転があらゆる機知とともに込められている。

 もっとも、当時の若い世代の作品には軽さを排した直接的な比喩としての表現を求める傾向がないわけではなかった。象設計集団チームZOO(1971-)の「名護市庁舎(1981)」を始めとする一連の作品、高松伸(1948-)の歯科医院である「ARK(1983)」など、重苦しいまでの表現がそれである。近代建築の非人称性を排する方向の極限であろう。

 これらの作品に共通して見られる特徴は、建築が文化的・歴史的な連想性を持ったイメージ発生装置となっていることだ。こうした点に、ポスト・モダニズムの建築表現が認められる。


ポストモダン建築巡礼

ポストモダン建築巡礼

  • 作者: 磯 達雄
  • 出版社/メーカー: 日経BP社
  • 発売日: 2011/07/21
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現代建築のパースペクティブ  日本のポスト・ポストモダンを見て歩く (光文社新書)

現代建築のパースペクティブ 日本のポスト・ポストモダンを見て歩く (光文社新書)

  • 作者: 五十嵐 太郎
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2005/07/15
  • メディア: 新書



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14. ハイテク──空間の新次元 [デザイン/建築]


ハイテクの出現

 格式と身分と慣習によってつくられる様式的な建築ではなく、与えられた任務を無駄な動作なしに必要最小限のエネルギー消費で遂行する機器のような建築。未来派の建築家たちはそうした建築の林立する都市イメージをダムのように、あるいはサイロのように描き出した。

 ル・コルビュジエはそれを、大西洋航路の汽船を引用しながら語った。都市は機能的に整理され、建築は単一の単純さを目指す。こうしたイメージを保証するものとして、未来派のサンテリーアの言葉の中に現れていた材料──鉄とガラスとコンクリートが登場する。

 「私は主張する。未来派建築は、計算の建築であり、大胆不敵な、単運さの建築であり、それは、また鉄筋コンクリート、鉄、ガラス。厚紙、繊維物質──つまり、木と石と煉瓦にかわって、最高の柔軟性と軽快さを可能にさせるようなすべての材料──の建築であるということを。」(1914 未来派建築, Manifesto dell'Architettura futurista, The manifesto of Futurist Architecture)。

 新しい機能を持った建築が近代になって登場したことと、それは時期を一致させた出来事で有った。鉄道の駅舎、大温室、大病院、大市庁舎、大ホテルなど、新しいタイプの建築が19世紀になると続々と登場してくる。若い生命力に満ちた木の芽にも似て、それら新しい種類の建物はぐんぐん育っていく。19世紀以降の建築は、それ以前の類似の建築に比べて、比較にならないほど大規模なものとなる。スケールの拡大が、建築の分野においても現れてくる。それこそ近代のいちばんの特徴だった。

 鉄とガラスとコンクリートの建築とは、こうした機能のための建築として生まれ育っていったのである。そこでは、それぞれの建築の役割にふさわしく材料が活用され、今や格式や慣習といった既成の表現に替わって、建物の性格を即物的に示す造形が用いられるようになった。近代建築の造形を導いた理念とは、つまりは機能の即物的な表現という考え方であった。それまでの、様式的な構成法は建築の内容を偽るものとして排除されていった、古代や中世の様式を身にまとった建築は、近代の機能を示すものと考えられなかったのは無論のこととして、そうした形自体になんの存在感もリアリティも感じられなくなったのである。

 そこに生じたのが近代建築の表現であった。
 一世代前であれば、そうした近代的な表現の建築はかなり意識的な設計の産物であった。周囲には木造の建物がまだ多く残り、鉄筋コンクリート造の建物といえば戦前からの生き残りの様式建築ばかりであったような時代に、近代的なスタイルを持った建築を建てることはそれ自体で街のランドマークをつくりだすことであり、近代建築は木造建築の屋根の連なりの上に浮かぶ白い船のように見えた。

 だが、現在では違う。近代建築は既に市街の大半を埋め尽くし、既にそれが町並みのベースとなってしまっている。かつて町並みの上に浮かび上がって見えたものが、今ではすっかり町並みそのものとなってしまっている。そこに、建築における近代革命の成立がある。かつてはかなり思い切った仕事であった近代的な建物の設計という行為は、今や当たり前な行為となってしまったのである。

 無論、近代建築の表現をさらに推し進めようとする態度が見られないわけではない。初期近代建築の造形を意識的に再構成しようと試みる例が見られるし、現代の工法にふさわしい近代性を追求しようとする態度もけっして終わったわけではない。しかし、近代性を極限まで追求し続けようとすると、既にそれは近代性というカテゴリーから外れて、別種の建築傾向になってしまうというのが、現代の状況ではないかと思われる。ハイテクは、まさにその一例であった。

ハイテクとインテリジェント・ビル

 ハイテクという言葉は、それもハイテク産業などという用いられ方から想像されるのは、先端技術ということであるが、建築におけるハイテクは、ハイスタイル・テクノロジー(highstyle technology)という言葉からきたものだと言われる。ちなみに先端技術という言葉はアドヴァンスト・テクノロジー(advanced technology)の訳語である。

 それはそれとして、ハイテクとは、日常のデザインに先鋭的な工業製品の造形を持ち込むスタイルのことであり、工業技術を極限にまで駆使したデザインもまたハイテクと呼ぶ。それは既に近代建築の機能主義を超えたファッションであり、機能の表現というよりも、既に機能の必要性を超えた表現と言うべきものである。1986年に完成した、ノーマン・フォスター(Sir Norman Foster 1935-)設計の「香港上海銀行本店(Hong Kong and Shanghai Banking Corporation Headquarters)」は、こうしたハイテクの傾向の代表だと言われているが、この建築の表現は、単なる必要の表現というよりも、未来を技術というヴォキャブラリによって表現しようとする一種の未来派だと言ってもいいものなのである。技術が極めて高い水準に達し、日常の建築に必要な機能条件はほぼ自在に獲得できるようになると、単なる技術の駆使、単なる機能の表現では日常性の範囲を超えた建築表現は得られなくなってしまう。そこにハイテクの生ずる素地がある。

 このような傾向は、最近の建物がさまざまに多様な技術を装備して、通信機能やIT化を進める中で、脚光を浴びてきた。建築のオートメーション化を進めた建築をインテリジェント・ビル(スマートビル)と呼んだが、こうした傾向とハイテクの表現とは、本当に関係があるのだろうか。

 20世紀末、IT機器、コンピュータの多様化にともない、オフィスビルの重装備化が進んだ。これは、一人あたりの床面積、設備水準に大きな影響を与えてきた。それは建築の形態にも影響を及ぼすことではあるが、インテリジェント化がただちに建築の表現に結びついたわけではない。外から見た限りでは、従来のオフィスビルと区別がつかないにも関わらず、あるビルはきわめてインテリジェント化が進んだスマートビルであることもありうる。これが「インテリジェント」の特徴と言っていい。つまり、「インテリジェント」の傾向は形態ではない。この時代には既に、建築の機能が素朴に可視的表現とはなりえなくなっていた。

 一昔前であれば、工場は工場らしく、学校は学校らしく、オフィスビルはオフィスビルらしく機能を表現するという倫理が生きていた。宮殿のようなオフィスビルをつくったり、神社のような学校をつくることは悪しき様式主義として排斥されるべきだと考えられていたし、その排斥には実際にも根拠があった。それぞれの機能の建築には、それぞれの建築らしさが存在し、機能主義の建築表現の素朴な根がここにあった。しかし、現代の機能は、だんだんと見えにくくなって、インテリジェント・ビルという高度に機能的なオフィスビルは、既に目にみえない機能を持つ建築になっていた。しかもこうした事情は、他のジャンルの建築、例えば、工場、ターミナル、学校、集合住宅……ほとんどあらゆるジャンルの建築にもあてはまる。最新鋭の医療体制を完備した病院も、その「最新鋭」が建築表現に直結しないものとして存在している。外から見ただけでは、その建築がどれほど高度な機能を内蔵しているか、絶望的に分からないのである。近年、こうした不可視化した建築機能が建築に内蔵されるようになった。

 スタイルを機能に対して正直に与えようとしても、機能それ自体が不可視化していることが、20世紀末の建築の特徴であり、脱工業化社会の建築、情報化社会の建築は、そうした時代を代表する建築なのである。

 インテリジェント・ビルに対しては、既に目に見えなくなった機能を、どう可視化するかという課題があった。それにふさわしく、スマートで才気あふれる風貌を与えたいが、それはどういうものなのか。20世紀末からの建築は、多かれ少なかれこうした地平にある。意図的に表現を付与しない限り、機能を表現した建築をつくりあげることは難しい。近代的な建築が既に一般化し陳腐化した中で、建築表現は機能の帰結として浮かび上がってはこない。ひとつの記号、ひとつの態度表明として表現を選びとらないことには、建築は建築になり難くなっている。

不可視の未来

 20世紀末の建築はさまざまな表現傾向を持ながら、これまでの近代建築を乗り越える表現を目指して展開し、そこに広義のポスト・モダンの時代を生んだ。問題なのは、そこで表現すべき建築の機能、建築の性能が、どんどん不可視になっていたことだ。

 蒸気機関車に惹かれる人がいるのは、その巨大な機械が、正直に素朴に、ボイラーの煙を吐き、動輪をピストンで動かしながら進むからだ。そこにはまさしく機能の可視的な表現がある。機能の可視的な表現こそ、初期近代社会の喜びであり、社会に対する祝意の表現だった。だが、シリコンチップは高性能であるほど不可解な印刷片となり、金持ちが札束をカバンに詰め込んで持ち歩くこともなければ、高位高官が勲章を胸に飾り大礼服に身を固める風景もない。

 機能も性能も財力も権力も、すべて不可視のシステムの中で記号化していく。建築は、それだけが消失することなく、天を摩する勢いて空に聳え、大地に広がっていく。だが、既に今日の建築は正直に表現すれば可視的象徴となるような機能も性能も財力も権力も持たない。すべてを記号化して表現しなければならないのが、20世紀末以降の建築なのである。

 機能が不可視なものとなった時代、建築の表現を与える建築家は、どのような立場から出発するにせよ、一元的な価値観だけではその未来を切り拓くことはできなくなっている。

 さらに重要なのは、建築家が選びとった表現は、人々に読み解かれなければ意味がないということだ。機能的必然、社会的必然、構造的必然といった近代建築を支えた理論的な根拠が曖昧かつ不確実になり、建築家は常に、自分の建築作品に意図的に存在証明を与えなければならなくなっている。現代の建築表現は、人々に読解されることを意識しつつ設計されていると言えるかもしれない。現代建築の多様さはそこから由来している。

 都市は不可視の機能を内側に抱えながら、目に見える形で変わってきた。大規模な再開発とともに都市は変貌していくが、それは意識的に建築の表現を与えない限り、それまでの建築と何の変わりもない建築群の出現としか映らない。開発イコール新しい建築の表現とはならないのである。
 しかも、都市の中には現代の空間だけがあるのではない。過去からの空間もまた、都市には息づいている。そうした空間のモザイクのすべてが、現代建築の空間だと言っていい。建築の空間には、それが現代の建築であろうと、必ず時間の流れが含まれている。それは、大きくは歴史につながっていく時間の流れである。

 ある建築の表現が生まれるには、時代の潮流がそこに働きかけているし、ある建物が建設されるためには、その都市がそうした建物を生む歴史がある。問題は、それをどのように読み解き、どのように未来に向い表現していくかだろう。建築が時間と空間の表現だと言われるのは、そうした意味であり、その説き、建築は自然に都市の中に関係性を持ち、歴史の流れの生にうまれるということが理解できると思う。


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