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14. ハイテク──空間の新次元 [デザイン/建築]


ハイテクの出現

 格式と身分と慣習によってつくられる様式的な建築ではなく、与えられた任務を無駄な動作なしに必要最小限のエネルギー消費で遂行する機器のような建築。未来派の建築家たちはそうした建築の林立する都市イメージをダムのように、あるいはサイロのように描き出した。

 ル・コルビュジエはそれを、大西洋航路の汽船を引用しながら語った。都市は機能的に整理され、建築は単一の単純さを目指す。こうしたイメージを保証するものとして、未来派のサンテリーアの言葉の中に現れていた材料──鉄とガラスとコンクリートが登場する。

 「私は主張する。未来派建築は、計算の建築であり、大胆不敵な、単運さの建築であり、それは、また鉄筋コンクリート、鉄、ガラス。厚紙、繊維物質──つまり、木と石と煉瓦にかわって、最高の柔軟性と軽快さを可能にさせるようなすべての材料──の建築であるということを。」(1914 未来派建築, Manifesto dell'Architettura futurista, The manifesto of Futurist Architecture)。

 新しい機能を持った建築が近代になって登場したことと、それは時期を一致させた出来事で有った。鉄道の駅舎、大温室、大病院、大市庁舎、大ホテルなど、新しいタイプの建築が19世紀になると続々と登場してくる。若い生命力に満ちた木の芽にも似て、それら新しい種類の建物はぐんぐん育っていく。19世紀以降の建築は、それ以前の類似の建築に比べて、比較にならないほど大規模なものとなる。スケールの拡大が、建築の分野においても現れてくる。それこそ近代のいちばんの特徴だった。

 鉄とガラスとコンクリートの建築とは、こうした機能のための建築として生まれ育っていったのである。そこでは、それぞれの建築の役割にふさわしく材料が活用され、今や格式や慣習といった既成の表現に替わって、建物の性格を即物的に示す造形が用いられるようになった。近代建築の造形を導いた理念とは、つまりは機能の即物的な表現という考え方であった。それまでの、様式的な構成法は建築の内容を偽るものとして排除されていった、古代や中世の様式を身にまとった建築は、近代の機能を示すものと考えられなかったのは無論のこととして、そうした形自体になんの存在感もリアリティも感じられなくなったのである。

 そこに生じたのが近代建築の表現であった。
 一世代前であれば、そうした近代的な表現の建築はかなり意識的な設計の産物であった。周囲には木造の建物がまだ多く残り、鉄筋コンクリート造の建物といえば戦前からの生き残りの様式建築ばかりであったような時代に、近代的なスタイルを持った建築を建てることはそれ自体で街のランドマークをつくりだすことであり、近代建築は木造建築の屋根の連なりの上に浮かぶ白い船のように見えた。

 だが、現在では違う。近代建築は既に市街の大半を埋め尽くし、既にそれが町並みのベースとなってしまっている。かつて町並みの上に浮かび上がって見えたものが、今ではすっかり町並みそのものとなってしまっている。そこに、建築における近代革命の成立がある。かつてはかなり思い切った仕事であった近代的な建物の設計という行為は、今や当たり前な行為となってしまったのである。

 無論、近代建築の表現をさらに推し進めようとする態度が見られないわけではない。初期近代建築の造形を意識的に再構成しようと試みる例が見られるし、現代の工法にふさわしい近代性を追求しようとする態度もけっして終わったわけではない。しかし、近代性を極限まで追求し続けようとすると、既にそれは近代性というカテゴリーから外れて、別種の建築傾向になってしまうというのが、現代の状況ではないかと思われる。ハイテクは、まさにその一例であった。

ハイテクとインテリジェント・ビル

 ハイテクという言葉は、それもハイテク産業などという用いられ方から想像されるのは、先端技術ということであるが、建築におけるハイテクは、ハイスタイル・テクノロジー(highstyle technology)という言葉からきたものだと言われる。ちなみに先端技術という言葉はアドヴァンスト・テクノロジー(advanced technology)の訳語である。

 それはそれとして、ハイテクとは、日常のデザインに先鋭的な工業製品の造形を持ち込むスタイルのことであり、工業技術を極限にまで駆使したデザインもまたハイテクと呼ぶ。それは既に近代建築の機能主義を超えたファッションであり、機能の表現というよりも、既に機能の必要性を超えた表現と言うべきものである。1986年に完成した、ノーマン・フォスター(Sir Norman Foster 1935-)設計の「香港上海銀行本店(Hong Kong and Shanghai Banking Corporation Headquarters)」は、こうしたハイテクの傾向の代表だと言われているが、この建築の表現は、単なる必要の表現というよりも、未来を技術というヴォキャブラリによって表現しようとする一種の未来派だと言ってもいいものなのである。技術が極めて高い水準に達し、日常の建築に必要な機能条件はほぼ自在に獲得できるようになると、単なる技術の駆使、単なる機能の表現では日常性の範囲を超えた建築表現は得られなくなってしまう。そこにハイテクの生ずる素地がある。

 このような傾向は、最近の建物がさまざまに多様な技術を装備して、通信機能やIT化を進める中で、脚光を浴びてきた。建築のオートメーション化を進めた建築をインテリジェント・ビル(スマートビル)と呼んだが、こうした傾向とハイテクの表現とは、本当に関係があるのだろうか。

 20世紀末、IT機器、コンピュータの多様化にともない、オフィスビルの重装備化が進んだ。これは、一人あたりの床面積、設備水準に大きな影響を与えてきた。それは建築の形態にも影響を及ぼすことではあるが、インテリジェント化がただちに建築の表現に結びついたわけではない。外から見た限りでは、従来のオフィスビルと区別がつかないにも関わらず、あるビルはきわめてインテリジェント化が進んだスマートビルであることもありうる。これが「インテリジェント」の特徴と言っていい。つまり、「インテリジェント」の傾向は形態ではない。この時代には既に、建築の機能が素朴に可視的表現とはなりえなくなっていた。

 一昔前であれば、工場は工場らしく、学校は学校らしく、オフィスビルはオフィスビルらしく機能を表現するという倫理が生きていた。宮殿のようなオフィスビルをつくったり、神社のような学校をつくることは悪しき様式主義として排斥されるべきだと考えられていたし、その排斥には実際にも根拠があった。それぞれの機能の建築には、それぞれの建築らしさが存在し、機能主義の建築表現の素朴な根がここにあった。しかし、現代の機能は、だんだんと見えにくくなって、インテリジェント・ビルという高度に機能的なオフィスビルは、既に目にみえない機能を持つ建築になっていた。しかもこうした事情は、他のジャンルの建築、例えば、工場、ターミナル、学校、集合住宅……ほとんどあらゆるジャンルの建築にもあてはまる。最新鋭の医療体制を完備した病院も、その「最新鋭」が建築表現に直結しないものとして存在している。外から見ただけでは、その建築がどれほど高度な機能を内蔵しているか、絶望的に分からないのである。近年、こうした不可視化した建築機能が建築に内蔵されるようになった。

 スタイルを機能に対して正直に与えようとしても、機能それ自体が不可視化していることが、20世紀末の建築の特徴であり、脱工業化社会の建築、情報化社会の建築は、そうした時代を代表する建築なのである。

 インテリジェント・ビルに対しては、既に目に見えなくなった機能を、どう可視化するかという課題があった。それにふさわしく、スマートで才気あふれる風貌を与えたいが、それはどういうものなのか。20世紀末からの建築は、多かれ少なかれこうした地平にある。意図的に表現を付与しない限り、機能を表現した建築をつくりあげることは難しい。近代的な建築が既に一般化し陳腐化した中で、建築表現は機能の帰結として浮かび上がってはこない。ひとつの記号、ひとつの態度表明として表現を選びとらないことには、建築は建築になり難くなっている。

不可視の未来

 20世紀末の建築はさまざまな表現傾向を持ながら、これまでの近代建築を乗り越える表現を目指して展開し、そこに広義のポスト・モダンの時代を生んだ。問題なのは、そこで表現すべき建築の機能、建築の性能が、どんどん不可視になっていたことだ。

 蒸気機関車に惹かれる人がいるのは、その巨大な機械が、正直に素朴に、ボイラーの煙を吐き、動輪をピストンで動かしながら進むからだ。そこにはまさしく機能の可視的な表現がある。機能の可視的な表現こそ、初期近代社会の喜びであり、社会に対する祝意の表現だった。だが、シリコンチップは高性能であるほど不可解な印刷片となり、金持ちが札束をカバンに詰め込んで持ち歩くこともなければ、高位高官が勲章を胸に飾り大礼服に身を固める風景もない。

 機能も性能も財力も権力も、すべて不可視のシステムの中で記号化していく。建築は、それだけが消失することなく、天を摩する勢いて空に聳え、大地に広がっていく。だが、既に今日の建築は正直に表現すれば可視的象徴となるような機能も性能も財力も権力も持たない。すべてを記号化して表現しなければならないのが、20世紀末以降の建築なのである。

 機能が不可視なものとなった時代、建築の表現を与える建築家は、どのような立場から出発するにせよ、一元的な価値観だけではその未来を切り拓くことはできなくなっている。

 さらに重要なのは、建築家が選びとった表現は、人々に読み解かれなければ意味がないということだ。機能的必然、社会的必然、構造的必然といった近代建築を支えた理論的な根拠が曖昧かつ不確実になり、建築家は常に、自分の建築作品に意図的に存在証明を与えなければならなくなっている。現代の建築表現は、人々に読解されることを意識しつつ設計されていると言えるかもしれない。現代建築の多様さはそこから由来している。

 都市は不可視の機能を内側に抱えながら、目に見える形で変わってきた。大規模な再開発とともに都市は変貌していくが、それは意識的に建築の表現を与えない限り、それまでの建築と何の変わりもない建築群の出現としか映らない。開発イコール新しい建築の表現とはならないのである。
 しかも、都市の中には現代の空間だけがあるのではない。過去からの空間もまた、都市には息づいている。そうした空間のモザイクのすべてが、現代建築の空間だと言っていい。建築の空間には、それが現代の建築であろうと、必ず時間の流れが含まれている。それは、大きくは歴史につながっていく時間の流れである。

 ある建築の表現が生まれるには、時代の潮流がそこに働きかけているし、ある建物が建設されるためには、その都市がそうした建物を生む歴史がある。問題は、それをどのように読み解き、どのように未来に向い表現していくかだろう。建築が時間と空間の表現だと言われるのは、そうした意味であり、その説き、建築は自然に都市の中に関係性を持ち、歴史の流れの生にうまれるということが理解できると思う。


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