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建築は堕落した。 [デザイン/建築]

少し前のことになるけど、久しぶりに湘南電車に乗って辻堂に出かけた。尊敬する多木浩二さんにお会いするためだ。デザイナーの榎本文夫さんに声をかけていただき、同じくデザイナーの藤森さんとエディターの内田さんと一緒に、ある土曜日の午後、辻堂海岸に近いお宅を訪ねた。榎本さんは多木先生の薫陶を受けた東京造形大学の卒業生で、藤森さんも同窓だ。多木邸にお邪魔した理由は措いておくとして、リビングに置かれた大橋晃朗さんがデザインしたテーブルを囲み、いろいろ興味深い話を聞くことができた。

なぜ東京の建築はダメになってしまったのか。昨年末の帰国してから、そんなささやかな疑問がミツバチのようにぼくの頭の回りをぶんぶん飛び回っていた。追い払っても離れないのが厄介だったのだが、多木先生の話を聞いて、自分の考えがやっと整理できたので覚え書きのつもりで書き記しておきたい。

昨年の4月8日にこんな記事を書いていた。一部転載したい。
http://blog.so-net.ne.jp/hashiba-in-stuttgart/2005-04-08

──小説の話の中でイデオロギーの対立がなくなったと書きましたが、それに付随して。イデオロギー対立といえば、20世紀の社会主義と資本主義ですが、結局は社会主義のイデオロギーが崩壊して、資本主義が勝ったと捉えがちですよね。でもイデオロギーとしての資本主義もずいぶん前に崩壊しているような。今の資本主義って、枠組みは残っているけど、中味は違うモノになっている。結局は「イデオロギー」そのものが崩壊したのではないでしょうか。社会経済学に「不純物の理論」というのがあります。歴史経済学者ジェフリー・ホジソンが言い出したことだと思います。簡単に説明すると、どんな形の社会であれ、社会が成熟していくと、その社会が抱える問題も成熟していく。その解決のために社会は純粋ではいられなくなる、つまり不純物が必要になる、というような理論です。例えば資本主義社会が成熟していくと、資本主義の枠組みでは解決できない問題が出てきて、それを抑えるために社会主義的なシステム(不純物)を採り入れる……など。ホジソンは、封建主義でも社会主義でも資本主義でも、純粋な社会はなく、不純物を採り込むことで社会が安定していたことを、過去の歴史の中に発見したわけです。20世紀の資本主義 VS 社会主義の構図は、結局、少し融通が利いて、社会主義的なシステムもうまく採り込んだ資本主義が安定を維持することができて、逆に純粋さを持続しようと疲弊した社会主義が崩壊したということなのでは。でも、社会主義のクスリを飲み込んだ資本主義も純粋ではいられなくなり、実はその時点でイデオロギー的には既に崩壊していた。「不純物の原理」は単純ですが、意味深い考察だと思います。つまり原理主義はありえないということか。こうして、世界を二分した大きな対立がなくなって、小さな対立が増え、現実を直視できない、想像力のない人にとっては面倒な世界になったのでは。……以上、一部加筆修正あり。

と、まあ、こんなことを書いていた。

「イデオロギー」自体が崩壊したという考え方が本当に正しいかどうか。実は確認がないのだけど、現在の建築の問題も、この「イデオロギー崩壊」の文脈で考えると分かりやすいので、とりあえずこれを大前提とさせていただく。まず、ソビエト連邦崩壊後の誤解として「社会主義が資本主義に敗れた」という勝ち負けの視点があることを、ぼくは書いている。ここで勝ち馬に乗ろうとした者は、誰も「資本主義」側に擦り寄ったわけだ(しかし本来の資本主義は既に崩壊しているのだけど)。もしくは社会主義の理想を失って、こちらに傾いてきた者もいるだろう。社会主義の理想は多くの人々を夢中にしたけれど、実際にその社会は弾圧と虐殺で維持されていたことは否めず、こうした事実は長らく隠蔽され表向きの「理想」だけがプロパガンダされていた。したがって、社会主義国家のいくつかが弾圧疲労で終焉を迎えたことは、当然と言えば当然だったと言える。
でも、その「理想」を声だかに論じることが、日本国内では、過度の企業主義、利益主義を抑制する調整弁として働いていたことも見逃せない(もちろんキレイ事ばかりではないと思うけど)。実際、70〜80年代の自民党議員の中には、市民社会の「理想」の捨身行のような野党議員を、それなりにリスペクトしていた様子も窺える。1960年、凶刀に倒れた日本社会党の浅沼稲次郎委員長におくった、当時の自民党総裁の池田勇人の追悼演説(伊藤昌哉氏が原稿を書いたと言われている)からもそれを感じることができるのだが、引用すると長くなるので興味がある人は「手紙の書き方」(佐高信著、岩波アクティブ新書)か底本の「衆議院追悼演説集」を読んでみてほしい。単純に比較できないことは分かるけど、往時の空気を現在の自民党に感じられないのは残念だ。バランスをとるのが難しそうだ。

この時代、進歩的な考え方と言えば「社会主義」で、知識人や一部のエリートもこうした思想に傾倒していたはずである。社会主義の「現実」ではなくて「理想」のほう。もちろん建築家も例外ではない。しかし実際のところ建築は、大きな予算が動き、大小数多くの業者が関わって、さまざまな利益が交錯する、社会主義の理想の極北とも言える利権争いの現場でもある。特に商業資本主義を体現する店舗建築は、建築家にとっては、お金を稼ぐためには引き受けざるを得ないが、表向きは屈辱的な仕事であることを装っていた向きがあった。実際、商業ビルの仕事を専門誌に公表しないアトリエ系建築家は多かったはずだ。もしくは開き直るか、こんな風に言い訳をする。「資本家の金で資本主義に対しアイロニカルな建築を建ててやったぜ」。建築家にとっては、それなりに「立ち位置」を見つけやすい時代だったのだと思う。
進歩的な建築家としてインテリ思想界から認められるため、表向きには「政治・経済」とは距離をおく姿勢を誇示する人も少なくなかった。テクノロジーで人々の暮らしを豊かにすることがモダン建築の旗印であり、その社会的な職能で企業を儲けさせたり、消費者を欺くようなことは潔しとしなかったのだろう。しかし現実は、個人住宅は別として商業施設も公共施設も建築は「政治・経済」とは切っても切れない腐れ縁でつながっている。その狭間での葛藤。今では想像もつかないけど、知識人としての「理想」は建築家にとってもスタビライザーだったのだ。そして進歩的な知識人として、資本家や政治家ではなくてできる限り市民のほうを向こうと努力していた。それに夢破れ、自己矛盾を解決できず、建築設計の現場から離れる者もいた。故・大橋晃朗さんもそんな「建築家」の一人だったようだ。

   

一方、イデオロギーがなくなったということは、「何モノ」かから「自由」になったということでもある。それは表現者にとっては素晴らしいことだ。しかし、イデオロギーから自由になったことで、まず最初に「政治・経済」のフロントラインに接していた建築家の箍が外れてしまったのではないか。イデオロギー信奉と一体だった倫理感の箍が消失して、本来は新しい、自分なりの倫理感で律せなければならなかったのに、「金を儲けて何が悪い」と嘯く賭場の人々の勢いを借りて、「理想」とか「市民生活」とかとともに吹っ飛んでしまったのだ。建築はもともと大きなお金が動く。建築家はその利権の中央に立つこともできる(実は下僕である)。こうして建築家は、新興富豪のようにディオールやドルチェ&ガッバーナやジョルジオ・アルマーニを身にまとい、メディアではタレントみたいに扱われ、嬉々として「一般市民」の世界を離れ、いんちきセレブリティの肥溜めに堕ちていった。反骨の建築家だと思われていた安藤忠雄の建築竣工パーティーに、小泉首相が現れたことが象徴的ではないか。政治家に擦り寄り、自民党の誰彼とは友だちだと自慢する建築家やデザイナーを見て、どれだけ吐き気がしただろう。彼らは喜んで一流ブランドの建物を手掛け、街に過剰な消費社会の毒をまき散らすように包装紙のような外装を競う。しかもその仕事を誇っている(確かに傑作建築もあるけど)。市民と建築家の溝は深まるばかりだ。

建築は「政治・経済」の下僕となる羞恥心がなくなってしまった。そんな羞恥心はもともと持たなくて良かったのかも知れないけど、でもそれが利権でがんじがらめの建築を何とか市民に向かわせていた「風」だったのではないか。それがなくなった。つまり、イデオロギーが消えて、真っ先に日本の建築家は堕落したのだ。モダン建築の「理想」を捨て、直接的な利益と金持ち=成功者という名誉を得て、もう、どうしようもないくらい堕落してしまった。おそらく建築はもうダメだ。鍋の中のカエルだ。温度上昇を自覚しないまま無感覚で茹で上がってしまい、あと10年くらいはダメだろう。いや50年くらいダメかも知れない。先がまったく見えない。

屋根を持たない者に屋根を与え、愛する者を守り、テクノロジーを駆使した大きな空間で人を感動させたり、調律された意匠で健やかな精神を育んだり、人は建築に向き合い、建築家もそれに応えようと、建築することで人間社会のさまざまなレベルの問題を解決しようとしていた。建築は人の希望や理想の投影であり、ある意味人間そのものだった。しかし、多木さんは「今や建築は政治になった」と嘆く。「表参道の無様な町並みを見よ」と。あの通りには崇高な理念や精神を体現している建築はなく、欲望に化粧をした、ドンキホーテの「一流ブランド」コーナーを歩いているようだ。新しい取り組みも見られるけど、多くは既存の技術を編集してデコラティブコスメティックを施しただけの「ギフトボックス」だ。新しい生活思想と合理的な暮らしの理想があった同潤会アパートは、何の理想も感じられない、巨匠の「作品」になり、復元されたというアパートの一部が寒々しい。

モダン建築の堕落はミース・ファン・デア・ローエから始まるとぼくは思っている。これは書くと長くなるので、また改めて。しかも問題は、その堕落した「理想なき」モダニズムが、モダン建築の本流になってしまったことだ。
モダンデザインでも、工業製品として大量生産に適したデザインがグッドデザインとされ、デザインの本質的な、道具で人を感動させるとか、人の心や暮らしを豊かにするとか、そんなことが後ろに追いやられてしまった。川崎某がどこかの座談会で語ったという、「ソニーの製品は外貨を稼ぐ。それが日本を豊かにする。さらにはその恩恵に国民が与る。だからソニーはグッドデザイン」みたいな、「風が吹けば桶屋が儲かる」式のグッドデザイン論を堂々と語る時代があって、その残滓は今日の「デザイン」にまだこびりついている。

   

そんなことを辻堂からの帰り道に考えていた。自分では整理できたつもりでも書いてみるとまとまりがない。

今年の9月、「ギャラリー間」で大橋晃朗さんの回顧展が開催される。
http://www.toto.co.jp/gallerma/ex060916/index.htm

この堕落した建築に対して、小さなデザインの可能性については次回の記事で改めて。


戦争論

戦争論

  • 作者: 多木 浩二
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1999/09
  • メディア: 新書


トリンキュロ―思考としての家具

トリンキュロ―思考としての家具

  • 作者: 大橋 晃朗
  • 出版社/メーカー: 住まいの図書館出版局
  • 発売日: 1993/05
  • メディア: 単行本


「金を儲けて何が悪い」という村上某のコメントに、それを否定する人々を「おかしい」というデザイナーもいたが、確かに、人間的な「仕事」をして稼いだお金について「金を儲けて何が悪い」というのはまったくの正論だ。しかし小賢しいインチキ博打で儲けたお金も、銀行から引き下ろせば「額に汗流したお金」とお金としては同じで、同じお札で同じコイン。いったいお金って何なんだろうね。これも前に書いたけど、貨幣の理論はまだ脆弱で過渡期なので、皆でちゃんと考えなければならないのに、貨幣の応用範囲はどんどん広がっている。「金を儲けて何が悪い」わけではないが、その「金」が何なのかが問題なんだ。


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hara_taka

くしくも昨晩安藤忠雄氏がテレビに出演していましたね。おっしゃている事には頷ける部分もありましたが、僕の無知ゆえか、近年の氏の作品から心に響く物はあまり有りませんでした。でも建築は本当は素人にこそ伝わらなければならない、とも思います。そして僕はその人の口から出る“言葉”ではなく、その人の活動によって実った“果実”しか判断の基準を持てません。もはや、広告主無しでは生きていけない大マスコミにジャーナリズムを期待出来ない今、この状況はどんどん加速していくのでしょうか。本当に全てに“商売”の臭いですね。冬の寒い曇りの日にコートの襟を立てながら歩いたあの表参道の情緒は、今は欠片も有りません。
by hara_taka (2006-07-25 13:21) 

hsba

悲しいことに安藤氏に期待するものは、今ではまったくないですね。珍しいモノを見たいということではなくて、本当に「建築」の新作を見たいと思うのは、今ではレンゾ・ピアノだけです(この人もブランドのビルを設計してますけど)。自分が偏屈な年寄りになってしまった気分なのですが、表参道は本当に無惨な風景になりました。
by hsba (2006-07-27 18:07) 

みやざきさん

うえのひとのコメントで、、、。
安藤さんと対比するに伊東豊雄さんがすぐに浮かぶと思うのですが、ここ、6年で、二人に差が付いたとおもいます。同じように、クライアントやデべロッパーから、お題が出てるのに、、、。しかも、多木さん時代より、伊東さんの建築が、スゴイ状態になってきていて、へたすれば、これから、妹島さんより、若い(みずみずし)建築をつくってくる可能性が高いと思います。
(だめなのもありますが、、、トッズとか。を!これも表参道!)
なんで、この差になっているのか?プログラムだけの問題ではないように、おもえます。
あと、表参道は木の剪定がだめだめ(怒)です。刈りすぎ!近頃、ひどい剪定のところが多いです(怒)。では。
by みやざきさん (2006-07-30 03:14) 

hsba

確かに伊東氏がトップランナーになったような気がします。伊東さんの建築のほうが自由でいいですよね。チャレンジもしているし。建築を新しくしていこうという意志の強さが違うと思います。街路樹もそのうちイミテーションの人工樹木になるんじゃないですかね。屋内に置く植木には偽物グリーンがありますよね。造化みたいな。とある建物の公開空地の芝生が人工芝だったので驚いたことがあります。見た目だけ。枯れた芝生にグリーンの塗料を撒いている中国を笑えません。
by hsba (2006-08-07 03:30) 

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