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5. 住居の原型 [デザイン/建築]



住まいの改良

 1851年にロンドンで世界初の国際博覧会が開かれた。この博覧会が近代の歴史に及ぼした影響はきわめて大きく、それはさまざまな方面にまたがるものだった。会場として建設されたジョセフ・パクストン卿の「水晶宮」は、鉄とガラスによるプレファブリケーション(prefabrication, 組み立て式)の歴史に大きな足跡をとどめたし、工業製品の質と生産量に博覧会が及ぼした力も大きかった。

 この国際博覧会での興味ある試みの一つとして「アルバート住宅(Prince Albert's Model Cottage)」と呼ばれる住宅改良モデルの建設がある。この建物はハイド・パーク(Hyde Park)の騎兵連隊兵舎に2階建て4戸の集合住宅として建設された。設計者のヘンリー・ロバーツ(Henry Roberts 1803-1876)は、19世紀の労働者住宅の改良に非常に大きな役割を果たした建築家で、労働者用の集合住宅ユニット・プラン(一戸の間取り)を完成させた人物として知られている。
 2階建て4戸のアルバート住宅は、2戸で一つの階段室を共有して戸口にアプローチするもので、原理的にこのモデルは上に積み重ねることも、左右に連続させることも可能だった。アルバート住宅が4階建てで各階6戸ほどのユニットの規模で建設されたならば、これは初期の日本の同潤会のアパートに近いものになる。

 産業革命のもたらした近代的な建築環境は、現在に残る壮大な町並みを生み出しただけではなかった。壮大な大建築は都市の偉観であり、町の表向きの顔であったが、その裏にはすさまじいスラムが広がっていた。社会思想家のフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels 1820-1895)は正当にもこう記述している。
 「ロンドンのように、数時間歩きまわっても町はずれのはじめさ達せず、近くに農村があることを推測させるような目じるしには、すこしも出会わないような都市は、いずれにしても独特なものである。(中略)しかし、これらすべてのためにはらわれた犠牲は、あとにあとになってはじめて発見される」(1844「イギリスにおける労働者階級の状態, The Condition of the Working Class in England」)。

 その「犠牲」とは、階級的には労働者階級であり、建築的にはスラムであった。エンゲルスの述べるロンドンのセントジャイルズ(St. Giles)のスラムを続けて見てみよう。
 「家には地下室から屋根のすぐ下まで人が住み、家の外も内もきたなくて、とうていこのなかに人が住めそうには見えない。それでもなお、これらいっさいのことは、街路のあいだにはさまった狭い囲い地にある住宅にくらべると、問題にならない。そこにはいるには、家と家のあいだにかくされた道を通るが、そこの不潔なことと荒廃したありさまは、とうてい考えられないほどである──完全な窓ガラスなどほとんど見あたらないし、壁はくだけ、入口の戸柱や窓枠はこわれてがたがたになり、ドアは古板をよせ集めてうちつけてあるか、あるいはまったくつけてない──ここのこの泥棒街では、盗むべきものはなにもないから、ドアの必要さえないのである。汚物と塵埃の山があたりいちめんにあり、またドアのまえにぶちまけられたきたいな液体は寄り集まって水たまりとなり、鼻もちならない悪臭を発散している。ここには、貧民のなかで最も貧しい者、すなわち最も少ない賃金しか支払われない労働者が、泥棒、詐欺師および売春の犠牲者といっしょに入り混じって住んでいる」。

 ここにいわれる「囲い地(Court)」とは建物と建物に囲まれた街路ブロックの中部のことで、日本の裏店に相当する。こうした囲い地は、「そこに住んでいる人たちは、便所のまわりに腐敗した大小便の浮いているよどんんだ水たまりを通らなければ、この囲い地にはいることも出ることもできない」ようなところが多く、通風も、日照も、また人目から隠れているので治安も、すべてが劣悪であった。

 囲い地が、都市計画上の建物配置の劣悪さの産物であるのと並んで、建築計画上の劣悪さの代表的なものとして、棟割り長屋の形式の住居(Back-to-back house)があった。
 再びエンゲルスの記述を引こう。
「ノッティンガムには、ぜんぶで1万1000戸の家屋があり、そのうち7000ないし8000戸は、たがいに背壁を境にして建てられている。そこで、吹き抜けの通風は不可能になっている。そのうえ、たいていは数戸に一つの共同便所しかない」。

 こうした劣悪な住環境の改善のために、どのような手段がとられたのか。その対応の中には、いくつかの興味ある方法と実例が見られる。

 最初が救貧法(Poor Act)であった。1834年にエドウィン・チャドウィック(Sir Edwin Chadwick 1800-1890)による救貧法レポートが提出され、ここに16~17世紀に生み出された救貧法に替わる新しい救貧法が成立する。これは貧民を救済し、やる気を起こさせるために、救貧院(Work House)に収容する、という内容を含んでいた。そこに収容された人々がやる気を起こすためには、そこが世間一般より居心地の良いものであっては効果が上がらぬ、という考えが支配したために、人々の愛大には救貧院に収容されることは、貧困という罪悪によって刑務所に収監されるのと同義と映った。たちまちにして、救貧院に入るべき「資格」を備えた人々はそのことを隠すようになり、資格者の数は激減し、時の指導者たちは救貧法が貧民の数を減らすことに目覚ましい効果を上げたのに満足してしまった。

 続いて行われたのが、通路部分を切り詰め、部屋数と設備を最小限に抑えた間取りを持つ、いくつかのモデル住宅の建設である。初めのうち、こうした住宅建設事業は、利益を期待できる投資対象と考えられていた。しかし、いくら切り詰めた建築を建てようとも、良心的に住宅を建設する事業は、その頃横行していたジェリー・ビルダーと呼ばれる建て売り安普請業者に太刀打ちできるほど、割の良い仕事でないことが判明してきた。

 結局、こうした住宅改善事業は慈悲的な財団──例えばアメリカで財をなした人物が英国で住宅建設を行ったピーボディ財団(Peabody Trust)などによるか、公共事業となる以外、成立し難いことがわかった。

 初めに述べたアルバート住宅は、ヴィクトリア女王の夫君アルバート公(Albert, Prince of Saxe-Coburg-Gotha 1819-1861)が総裁となった「労働者階級の状況改善協会(Society for Improving the Condition of the Labouring Classes, Labourer's Friend Society)」によって建設されたモデル住宅だったのである。

 第一次世界大戦(1914-1918)で敗戦国となったドイツでも、労働者の住環境の改善が求められていた。戦後の賠償金の支払いを自国の工業製品が担っていたドイツでは、その利潤追求ため労働者は劣悪な環境下での労働が強いられ、ベルリン(Berlin)の労働者住宅は監獄のようであったと言われていた。ベルリンの住宅供給公社ゲハーク(GEHAG)に就職した建築家ブルーノ・タウト(Bruno Julius Florian Taut 1880-1938)は、主任建築家として労働者の健康を考慮した集合住宅に注力し、1924年から1931年の8年間で「ブリッツの集合住宅(1925 Hufeisensiedlung Britz)」を始め、12000件もの住宅建築に関わった。エベネザー・ハワード卿(Sir Ebenezer Howard 1850-1928)と著書「明日の田園都市(1898 Garden Cities of To-morrow)」の影響の下、彼が手掛けた住宅は、現代の集合住宅の原型をつくりあげたと言っていい。

住まいの原型

 スラムの改善、労働者階級の住宅改良の事業が生み出したモデル住宅は、極限的な間取りを求めていくことによって、一種の住まいの原型に近づいていった。

 ところが、こうした社会事業としての建築活動とは別に、きわめて思弁的に建築の原型を追求する建築家たちが存在していた。ロンドンの万国博覧会よりも100年近く前、マルク・アントワーヌ・ロジェ(Marc-Antoine Laugier 1713-1769)というフランスの聖職者が「建築試論(Essai sur l'architecture)」という一冊の本を著した。

 ロジェの「建築試論」(1755年に第二版が出版された)の扉絵には不思議な場面が描かれている。打ち崩れた古代建築の廃墟が右手前に見える。コリント式の柱頭、フルーティング(溝彫り)を施された柱身の一部。繰形(飾りの縁取り)が地面に折り重なっている。そのエンタブレチュアに左肘を寄せかけて、ひとりの女神が腰掛けている。彼女の左手にはディヴァイダーと直角定規を持っており、右手は何者かを指し示している。この女神は異教のミネルヴァの女神であろうか。ともあれ、女神の指し示す方には4本の樹木が葉を茂らせている。プットー(童児)がひとり、頭の上に火を灯した姿でやはりこの光景を眺めている。その火は、物事の始原の象徴である。女神が示しているものは、ただの樹木ではない。4本の樹木の枝の分かれ際には横材が架け渡され、それぞれ梁と桁とを形づくっている。さらに桁の上には、何本もの斜材が立ち上がり、合掌を形成し棟木を支えている。この不思議な構造物こそ、ロジエがイメージしたもっとも根源的な建築の姿、「高貴な単純さ」を備えた建築なのであった。4本の柱の役目をしている4本の樹木は、豊かに葉を茂らせているし、合掌を形成している材料もまだ生きている木の枝のように葉をつけているらしく見える。この不思議な絵を前にして、私たちはこれが自然の産物なのか、それとも原始的な私たちの祖先の作品なのか、はっきりと見極めることができない。

 ロジェが示した建築の原型のイメージは「始原の小屋(Primitive hut)」と呼ばれることになる。それは柱と梁と、そして屋根を支える小屋組だけからなる切妻の小屋であった。ロジェは、建築から後世の夾雑物をすべて取り除いて、それを単純な原型にまで昇華させることを望んだ。壁、窓、扉はすべて後の世の産物である。残るべきものは柱と、柱が支えるエンタブレチュアと小屋組しかない。ある意味では、彼は柱と梁とスラブ(床板)から構成される現在の鉄骨構造を予言していた人物とさえ言えよう。事実、彼を「最初の近代建築思想家」と評する建築史家もいるほどである。

 近代建築家たちは、スラムの改良といった社会意識を離れて、自分自身の精神の問題としても、建築の原型を探り出し、そこから自分たちの建築をつくりあげたいと思った。ロジェは、そうした近代建築の祖となったのである。

 1914年に、ル・コルビュジエ(Le Corbusier, Charles-Édouard Jeanneret-Gris 1887-1965)は「ドミノ(Dom-ino)」と呼ぶ建築のモデルを提案した。これは柱と床板と階段だけからできた、建築の原型である。この後、1920年に2階分の高さをもった箱ともいうべき「シトローアン住居(Citrohan)」というもうひとつの原型を提示した。彼はここで、すべて原型から出発させて住宅を、そして建築を構想しようとしたのである。そこに近代建築の精神を見るべきだろう。それはすべてを過去の歴史や様式に頼ることなく構築し、建築をつくろうとする精神である。この「ゼロからの出発」が近代建築を支えた。多少理屈っぽくいえば「自己の意識によって世界を把握し、そのようにして意識的に把握された世界に意味を認める」という精神である。

 ル・コルビュジエは、1925年に開かれた「装飾美術・工業美術国際博覧会(Exposition Internationale des Arts Décoratifs et Industriels Modernes, アールデコ展)」に「エスプリ・ヌーヴォー館(Pavillon de l'Esprit Nouveau)」というパヴィリオンを設計した。これは彼の住宅の原型を提示したもので、建設されたのは一戸だけだが、本当は「アルバート住宅」同様に、縦横に積み重ねられることによって集合住宅となるべきものであった。

 そして1926年には、自己の建築のイメージをまとめて、「近代建築の五原則(Les 5 points d'une architecture nouvelle, Le Corbusier's Five Points of Architectur)」と呼ばれる考えを発表した。その五原則とは、ピロティ(pilots)、屋上庭園(toit-terrasse, roof gardens)、自由な平面(plan libber, free designing of the ground plan)、連続窓(fenêtre en bandeau, horizontal window)、自由なファサード(façade libber, free design of the façade)である。彼は建築を地表から持ち上げ(ピロティ)、庭を建築の上につくり(屋上庭園)、壁で固く築きあげる伝統的な間取りや壁面を持つ建築を否定し(自由な平面、連続窓)、建築の表情を自由にした(自由なファサード)のであった。

 ここにはドミノによって示された建築、すなわち柱と床板で構成される建築の原型が出発点に据えられていた。

 彼の住宅作品、例えば1928年から31年にかけてパリ郊外のポワシー(Poissy)に建てられた「サヴォア邸(Villa Savoye)」には、彼の理念と美意識とが、類まれな美しさで実現している。そこには彼の意図はともあれ、芸術的な香気に満ちた作品がある。
 彼自身は、実は美そのものを第一の価値とはしたがらなかった。「住宅は住むための機械(Une maison est une machine à habiter)」(1923 「建築をめざして, Vers une architecture, Towards an Architecture」) というのが彼の唱えた建築観であった。そこには歴史的な装飾や様式に縛られた建築を否定し、合理主義に基づいた建築を良しとする主張が込められていたのである。

都市に住む

 近代建築の出発点であった住宅の二つの源流、スラム改善や住宅改良運動の中から生まれたモデル住宅の試みと、近代的建築の理念的な原型、「始原の小屋」を発想の出発点とする住宅像の探求は、やがて都市の住居に対する新しい提案の中に合流していく。

 近代社会が生み出した空間が、独立した専用住居というものであることを、ここえ考えておく必要がある。

 近代以前の社会では、住居は実は住まいだけでなく、生産や管理の機能をも含んだ複合的なものだった。例えば農家は住宅であると同時に農作物のためのスペースを住宅内に持っていたし、商人は店の上に住み、職人は家に作業場を持つというのが、ごく自然な生活の営みだった。領主の館や宮殿も、生活の空間はその一部だけで、大集会場、政庁、そしてホテルの機能をもその中に含むのが普通だ。つまり、住まいだけからなる独立専用住居という建築の形態は、近代社会の産物だと考えていいのである。
 そうした独立専用住居が成立した要因は、産業革命に求められる。産業革命は工業化された社会をつくりだし、工場やオフィスなどの生産施設を分離独立させ、その結果、職住の分離した現在の私たちが送っている生活空間のスタイルが生まれたのである。その時に、生活のために独立する建築が、専用住居だった。近代の社会は、それまで住居の中にさまざまに同居していた複合的な機能を空間的に分離独立させ、結果として住宅を純化したのだ。

 近代建築において、独立住宅は自分たちの出生の基盤と言っていい。フランク・ロイド・ライトは、そうした新しい社会の、新しい独立住宅(プレイリーハウス)を創出することによって建築家となったのであり、ル・コルビュジエがドミノという建築の原型を提出したのも、その根本には独立専用住居の原型を見出そうとする精神があった。
 近代の建築空間の原型は、専用住居の空間とオフィスの空間であり、それが工業化された社会、職住分離した社会の、住と職の空間をそれぞれ示していると考えられるのである。

 住宅の原型を現実の都市の中に実現する動きは、スラムの改良とは別の流れとして、理想の住宅像の展示という試みを生む。1927年にドイツのシュトゥットガルト(Stuttgart)近郊に建設された「ヴァイセンホフ・ジードルンク(Weissenhofsiedlung)」と呼ばれる実験住宅はそうした試みの代表例だ。これはドイツ工作連盟(Deutscher Werkbund)が第2回の建築展示会として企画したもので、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエ、ヴァルター・グロピウス、ペーター・ベーレンス(Peter Behrens 1868-1940)ら、当時近代建築に向かって邁進していた建築家たちが一棟、あるいは二棟ずつ住宅を設計して建設した。ベルリンの集合住宅開発で知られるブルーノ・タウトも一棟を手がけている。

 ここには、近代建築が独立専用住居という建物形式と分かちがたく結びつきながら実験を繰り返していった姿がはっきりと現れている。独立専用住居だからこそ、建築の表現の中に新しい社会の構造、職住分離した工業化社会のイメージを込めることのできる、もっとも象徴的なテーマだったのである。当時は白く四角い住宅群を受け入れられない人々も多く、新聞紙上ではドイツのエルサレムと揶揄されたり、あまりにそっけなくモダンな内装に、ここで生活するためには想像力が必要だという批判もあった。

 しかし、新しい時代の、都市の新しい生活者、労働階級と中産階級の住まいこそ、こうした新しい建築だと考えたのが近代建築家たちだった。新しい建築を通じて新しい社会を表現し、さらには建築を通じて社会を変えていこうとする理想に燃えていたので、住宅もそうした新しい社会の建築の原型となるべきものだったのである。
 わが国の戦後の建築の中にも、そうした大きな理想を秘めた作品が住宅の形をとって現れているのを見ることができる。

 1956年に吉阪隆正(1917-1980)が設計した「ヴィラ・クゥクゥ」がつくられ、それまでの日本の住宅にはほとんど見出すことのできなかった壁による住居のイメージが提示された。これはル・コルビュジエのシトローアン住居を造形的に変形し、空間に変化を与えたものとも考えられる。
 1958年には菊竹清訓(1928-2011)によって「スカイハウス」がつくられる。この住居はピロティによって住居を持ち上げ、明快な空間をつくると同時に、新しい核家族の生活を造形として表現したものでもあった。

 そして1961年には、篠原一男(1925-2006)によって「から傘の家」が設計される。この住宅は大きな屋根を放射状の垂木が支える木造住宅で、日本の建築の原型を思弁的につくりあげた作品ともいえる。日本の建築と近代住居とのイメージとが、この時期になると一致点を見出すのである。こうした戦後の近代建築と住宅建築との二人三脚の発展は、1967年に東孝光(1933-2015)が自邸として「塔の家」を建てた時に、新しい局面を迎える。この住宅は、大都市の地価の上昇の中で、極小の敷地に親子三人が住むための建築の宣言であった。ここには、建築の原型としての住宅を提言することによって、新しい社会の建築像を示すという建築家の理想主義が、現実の都市の膨張の過程でそのリアリティを失い、新しい住宅像(都市環境の結果としての住宅)に向かって方向転換したことが見てとれる。
 住宅は、都市像を指し示す原型から、都市を映し出す鏡へ、微妙だが大きく変化を遂げていくのである。

家族団欒の発見

 大正期の日本では、さまざまな住宅近代化の運動が行われていた。西村伊作(1884-1963)も住まいの課題に取り組んだひとりだった。

 彼は22歳の時、舶来の住宅雑誌を参考に、最初の自邸を手掛けて以来、「文化学院校舎(1921)」を始め200を超える建築設計に関わったが、建築家は生業ではない。多くの著作があるが文筆家でもないし教育者でもない。西村は、アカデミズムや人間不在の国家主義に呑み込まれることを潔しとせず、生涯を自由人、Free thinkerとして近代から現代の日本を自然体で生きた人物だった。

 時に「建築家」となって住宅を手掛けた西村は、その率直さゆえに、多くの日本人の住まいに影響を与えた。彼は、家を暮らしの器ととらえ、封建的な間取りや権威主義を排し、「家族だんらん」の家を提唱した啓蒙家でもあった。その体現として、1914年に竣工した彼と家族のための理想の住まい「旧西村家住宅(現・西村記念館)」は、今もほぼ当時のまま保存されている。

 旧西村家の大きな特長は、家族のだんらんの場があることだ。接客本位の家から、家族本位の間取りへ。居間にはイングルヌック(Inglenook)と呼ばれる、英国の住宅に見られる暖炉脇の小空間が設けられ、the firesideを体現したプランになっている。ちなみにthe firesideは、炉端の意味から転じて「家庭」や「一家だんらん」に和訳された言葉だ。庭が見える南側のスペースは、接客用ではなく、家族のための居間や食堂に充てられ、テーブルと安楽椅子を中央に据えた居間は、修道院内の談話室を指す「パーラー(Parlour, Parloir)」という室名で呼ばれた。家族の語らいの場として位置づけられた空間であり、ここが西村家の中心でもあった。

 こうした西村家の間取りがどれほど先進的であったのか。何より、富国強兵の旗印の下、国家優先の前に個人の生活は軽んじられ「男子は衣食のことにかかわるべからず」とされていた時代である。当時は「家庭」という言葉も、まだ新鮮な新語だった。中国伝来の「家庭」という言葉は既に使われていたが、それは単に「家の内」の意味にすぎなかった。家庭が「Home」の訳語に採用されたのは1890年代で、ホームの意味を帯びた「家庭」は、明治末期には流行語になり、雑誌名にも多く採用されることになる。ちなみにビショップ (Henry Rowley Bishop 1786-1855)の名曲「Home! Sweet Home!」は、1889年に里見義(1824-1886)によって「埴生の宿」と訳され、当時は「楽しき我が家」という訳題はまだなかった。

 「だんらん」という言葉はどうだろう。1907年出版の「子供の躾方 一名・育児憲法」(笹野豊美著)には、「一家團欒」の項目に「夕食の時を一定すべし」として「丁度今一家族の人々が大きなチャブ薹を圍んで其の日の出來事を話し合って居る一家團欒の有様であります。何と平和の風が颯々と吹いて居る様ではありませんか。」と書かれている。この時代のだんらんとは、家族が「ちゃぶ台」を丸く囲む場だった。

 ちゃぶ台は、思想家・編集者の堺利彦(1871-1933)が考案したものとされている。堺はウィリアム・モリスの「理想郷(ユートピア便り)」を、日本で最初に紹介した人物であり、西村伊作は20歳の時、堺が編集した「平民文庫」を、自転車で行商していたことがあった。新宮から京都への旅商いの途中に売った本には、後に田園都市構想や都市計画に多大な影響を与えた、エドワード・ベラミ(Edward Bellamy 1850-1898)の小説「顧みれば(1888 Looking Backward)」の抄訳「百年後の新社会」(堺訳)も含まれていた。

 西村伊作が新居につくりあげた「だんらん」の場は、堺利彦考案のちゃぶ台ではなく、パーラーとイングルヌックだった。この大きな飛躍には、洋雑誌の影響があったようだ。当時、西村は「アメリカの建築の本、雑誌をたくさん取った。なぜならば住宅の建築はアメリカが最も進歩している。」と自伝「我に益あり(1960)」に記している。同時に「しかし私は建築の外観様式は英国のいなか家のようなものを好んだ。」とあり、自邸にも、洋の東西を問わず、民家の持つ大らかな表現や、土着の住宅に培われた地域性も、こだわりなく採り入れている。

 ル・コルビュジエやライトと同時代を生きた西村伊作は、抽象に流れることなく、暮らしの理想を風船のように膨らませて、その形を「住宅」に写してきた。暮らしから住まいを発想する考え方では、暮らしの基本となる生活思想やライフスタイル、そして「理想」が出発点となる。外国人でなくても、モダニズムに頼らなくても、理想に怯まず、自身のライフスタイルを持てば、封建的な生活から解放され、家族が楽しく集う新生活が営めることを、西村は紀伊半島の新宮で実践して見せた。



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6. 建築家の変身 [デザイン/建築]



万国博という思想

 かつて建築は芸術であり、建築家は芸術家だった。
 建築家は画家や彫刻家と並んで、美術アカデミーに会員として連なることを最高の名誉と考えていた。1671年にはフランスに建築アカデミーが設立され、ヨーロッパの他の諸国でも美術アカデミーに建築家が会員として並んだ。1768年には英国でも王立美術院(Royal Academy of Arts, RA)がつくられている。建築家は、芸術家を目指して修行を積み、作品を設計していた。

 芸術に関わる建築教育の場としては、フランスのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)の名が有名である。ここでの教育は、基本的にローマ大賞(Prix de Rome)を軸にしていたといっていい。建築部門では1720年から毎年1名の学生がローマ(Rome)に留学できる制度が確立していた。ローマ大賞はその栄誉のための選考という権威を19世紀には担っていたのである。エコール・デ・ボザールは組織的には美術アカデミーからの独立を保っていたが、1819年から1968年までに連綿と続いたボザールの栄光時代にあって、ローマ大賞の選考だけは美術アカデミーが行っていたのである。ボザールの教育は、年に一度のローマ大賞授賞のための巨大な予備校であったと称せるほどである。

 ローマ大賞を得ると、その学生はローマにあるフランス・アカデミー(Villa Médicis, Académie de France à Rome)に派遣される。ローマへの留学はそれ自体貴重な体験であったし、国費で古代の建築や近世の建築の研究に没頭できることは、何にも勝る魅力であった。しかも、帰国後は有力な建築家となる道が洋々と開けていた。ここに見れれる考え方は、まさしく建築を芸術と捉えたものである。

 芸術は資格ではない。唯一人の天才が現れれば、何百人の凡才が集まったとしても抗せない。教育制度も、すべての生徒に一応の水準の技能を与えることを主眼とするのではなく、最高の才能を見出すために、組み立てられている。すべてのカリキュラムは、職能教育ではなく、芸術的才能の練磨のためにあった。

 しかしながら近代社会では、才能だけを武器とする芸術家よりも、国家的な資格試験などを受けた、高級専門技術者としての建築家のほうを信頼するようになる。1806年にはロンドン建築協会が、1831年には建築協会という組織がつくられ、この両者が1834年に脱退して英国建築家協会となり、この団体が「王立」の称号を得て、王立英国建築家協会(Royal Institute of British Architects, RIBA)へと発展した。そして1862年には、建築家の技能を社会に公認させるための任意資格試験(Voluntary Architectural Examination)が実施される。

 社会の大勢は、建築家の造形的ひらめきを探すことよりも、登録され資格を公認された建築家を重視する方向に向かっていった。建築家たちは国際建築家会議(International Congress of Architects)を組織し、1900年にはパリで、1904年にはマドリッド(Madrid)で、1906年にはロンドン、1908年にはウィーン(Wien)で、1911年にはローマで大会を開いた。そして1911年の会議では、すべての国で建築家の登録を法律的に義務付けるように、との決議がなされた。

 建築家の基盤が芸術家としての権威のみによっては支え切れなくなっていった時に、建築家たちは、それではどのような造形を自己の拠りどころとしたのであろうか。

 19世紀に産業革命が花開き、20世紀になってそれが生活の造形のすみずみにまで変化を及ぼして近代革命が成就したとする基本的な理解にまどわされ過ぎると、芸術家としての建築家が高級専門職として立つようになった時に、その変化に並行してすぐに近代的造形が輩出し定着していったと考えがちである。しかしながら、実際はそのようなものではなかった。高級専門職として立つ建築家は、社会の要請に何よりも誠実に対応すべき存在であって、本質的に現状追認型の保守的倫理観を身上とする。

 建築は必要以上にアナクロニズムで華美であってはならないが、危険なまでに珍奇な新主張を込めたものであってもならない。建築の造形は客観的に認められるもの、安心して用いられるもの、あまりに個性的で特殊過ぎないもの、つまりは非人称的な安定感のあるものに落ち着く。20世紀初頭の大建築を覆ったものはフリー・クラシック、ネオ・バロック、第二帝政様式、エドワード朝バロックなどと呼ばれる、大ぶりの造形を示す古典主義様式であった。1930年代頃までの大きな公共建築、大事務所建築などは、ほとんどこの様式によっている。

 たしかに歴史様式を脱した近代的造形の建物がなかったわけではない。だが、そうした新しい建築が目を引くのは、その周囲に無数の様式建築が建てられていたからだ。

 もっとも人々の意に迎合しなければならないのは商業建築である。その近代的大型化の産物であるデパート建築は20世紀初頭に数多く建てられる。ロンドンにその例を見ると1901~5年に建てられた「ハロッズ(Harrods)」は赫々たる装飾的な大型テラコッタタイルで身を装っているし、1908~12年に建てられた「ホワイトリーズ(Whiteleys)」や同じ年につくられた「セルフリッジズ (Selfridges)」 は、ともに大オーダー(円柱の構成)を用いた近代風のバロック建築である。1907~9年にヨゼフ・マリア・オルブリッヒ(Joseph Maria Olbrich 1867-1908)がデュッセルドルフ(Düsseldorf)に建てた「ティーツ百貨店(Leonhard Tietz)」も、方立て(窓の縦桟)や柱の扱い方に近代建築の萌芽が見られるものの、大きな屋根に屋根窓が並びその下の壁面には巨大なレリーフ装飾が施されている。

 こうした精神が最初に現れたのが、万国博覧会である。万国博覧会は1851年にロンドン(The Great Exhibition of the Works of Industry of all Nations , The Great Exhibition)で開かれて以来、1853年ニューヨーク博、1855年パリ博、1862年ロンドン博、1867年パリ博、1873年ウィーン博、1876年フィラデルフィア博、1878年パリ博、1889年パリ博、1893年シカゴ博、1900年パリ博と、19世紀を通じて盛んに開催される。

 そこには世界の物産が展示されており、世界の進歩が物質的な形で集結している。ここに見られるものは、進歩を目に見える形で、言い換えれば世俗的な形で示そうとする思想であり、一種の客観主義であった。

 建築家を芸術家という難しい概念から高級専門職という分かりやすい姿に変えたのと同じ力が働いて、世界を宗教といった難しい概念で説明するのではなく、物質の姿で世俗的に捉えようとしたのが万国博覧会の思想であった。

 そこには、建築家の性格の変化の場合と同じように、進歩的な考え方はあっても、前衛的な考え方はなかった。万国博覧会が技術的に新しい試みを数多く産んでも、それが世界を変えていこうとする前衛運動に結びついて近代建築運動になるためには、少し異なった発想法と結び合う必要があった。

アーツ・アンド・クラフツ運動からバウハウスへ

 アーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts Movement)とは、1889年英国で第一回展示会を行ったアーツ・アンド・クラフツ展示会協会に集結した多くの工芸作家や工房たちの活動を総称した呼び名である。この運動の理論的な支柱は、ゴシック様式を理想としたジョン・ラスキン(John Ruskin 1819-1900)、その弟子であるウィリアム・モリス(William Morris 1834-1896)がいた。

 アーツ・アンド・クラフツ運動は芸術作品をつくるのではなく、かといって万国博覧会の思想に見られるような世俗的物質主義をとるのでもなく、工芸品がもっている物と人との間の密接な関係を保ち続けることを目指した。それを可能にするものとして、彼らは手工業を主張した。これによって、もののつくり手と、品物と、それを使う人々との間に密接な関係が保てると考えたのである。その際にはゴシック様式を生んだ中世の社会が理想とされた。

 アーツ・アンド・クラフツ運動は、その運動を英国で調査したヘルマン・ムテジウス(Adam Gottlieb Hermann Muthesius 1861-1927)によって、ドイツに移植され、1907年にドイツ工作連盟という運動に発展する。ドイツ大使館付商務補佐官としてイギリスの建築調査を終えて1903年に帰国したムテジウスは、通産大臣として工芸と産業を結びつけることにより、国の輸出力を強化する必要性を悟った。つまり、ドイツ工作連盟はアーツ・アンド・クラフツ運動の中世主義的理想を単純に受け継いだのではなかった。ドイツ工作連盟がアーツ・アンド・クラフツ運動から継承したものは、社会機構と直結した営為として芸術やデザインの活動を見るという態度であり、芸術やデザインの団体は単なる同業者の集まりではなく、主義主張の実現に向かって志を同じくする者が結束する運動体であるという姿勢であった。ドイツ工作連盟のあり方は、対社会の問題を考える時にも職能団体であるよりも、イデオロギーを持った運動体であった。こうした存在のあり方自体がアーツ・アンド・クラフツ運動の遺産なのであり、それは重要な近代性であったと言える。

 この後、1919年に、バウハウス(Bauhaus)という国立学校がヴァイマル(Weimar)に開校する。
 バウハウスの教育理念を示す事実として、そこでは過去の歴史を教える歴史の授業がなかったことがしばしば指摘される。ここに、近代精神の世界把握がよく現れているように思われるのである。歴史に基づく教育、過去の継承と洗練という教育は、芸術教育には必須のものであるが、新しい運動体としての教育には不要である、という判断がそこに働いていた。

 素材から発し、抽象的構成に進み、その総合としての各造形ジャンルを生み出すというバウハウスの教えは、静的な教育カリキュラムとして捉えただけでは何も生み出さない。ここでの教育は、学生たちがいかにこの骨格に肉付けを行い、自己の主張を見出していくか否かに、すべてがかかっているからである。バウハウスの流転の歴史は、学校の歴史というよりは運動の歴史なのである。運動は制度が確立するとともにその力を鈍化させる場合が多い。バウハウスの歴史は、本質的に流動的な運動体の姿を示している。ここで近代芸術運動は、制度化されることを拒み続けつつ運動体として実体を持ったのである。

 バウハウスに学んだ者の中からは、マルセル・ブロイヤー(Marcel Lajos Breuer 1902-1981)やアルフレート・アルント(Alfred Arndt 1898-1976)など、教授に加わる者も現れたが、結局のところそれは学生のための教育であるよりも、教師(マイスター Meister)としてそこに集まった芸術家たちにとっての運動であった。ギルド組織を模した教授団のあり方は、芸術教育(ボザール)に対するアンチテーゼを提出するものであったし、一定の水準に学生を訓練する職能教育とも異なっていた。ここには、イデオローグとしての建築家の姿が見てとれる。

近代建築国際会議CIAM

 イデオローグとしての建築家のあり方は、最終的にはCIAM(近代建築国際会議, Congrès International d'Architecture Moderne)に結実する。CIAMは1928年にスイスの「ラ・サラ城(Château de La Sarraz)」でエレーヌ・ド・マンドロ夫人(Hélène de Mandrot 1867-1948)の下に集まった建築家たちによって結成される。ジークフリート・ギーディオン(Sigfried Giedion 1888-1968)やル・コルビュジエらが中心になって、従来のアカデミーから離れた、全体的な建築を目指すという方向性が打ち出された。6月28日に出された宣言は次のような言葉が見出される。

 「われわれの建築作品は、現在のみを起源とするべきである」
 「われわれがここに集まった目的は、現存するさまざまな要素の調和──現代に不可欠な調和──を、建築をその本来の場、即ち経済及び社会の場に引き戻すことにより、獲得することである。従って建築は不毛のアカデミーや、古くさい様式の影響から解放されるべきである」
 「最も効果的な作品は合理化と規格化から生まれる」

 これらの言葉の中には、20世紀の建築運動が目指してきた要素のすべてが含まれていることに気づく。ドイツ工作連盟での議論、バウハウスの歴史観、アカデミー教育からの離反、産業革命後の近代社会に対する理解、などである。

 しかも、CIAMの運動は、国際的な運動として展開することをその当初から主目的としていた。各国の歴史的伝統に縛られぬ建築を目指す動きとして、当然であったが、近代建築そのものの本質を彼らがどう捉えたかを同時にそれは示している。

 CIAMの建築観は普遍的・合理的な建築を理想とするものであり、それが機械をモデルとした建築観に結晶する。1911年に英国の建築家ウィリアム・リチャード・レサビー(William Richard Lethaby 1857-1931)はゴシックの大聖堂と汽船とを「どちらも部分を除々に改良していくことによって同じようにデザインされてきた」ものだと述べて、建築と汽船との類似を指摘した。1924年にル・コルビュジエは著書「建築をめざして」の中に「住むための機械」としての住宅のイメージを述べた。これらの言葉には、手仕事ではなく、機械こそ時代の象徴だとする洞察が込められていた。

 それでは機械とはどのような性格を持っているのであろうか。機械には三つの大きな特徴がある。

 ①目的を持つ、②部品から組み立てられる、③普遍的に作動する。

 機械をモデルとする建築が、機能を目に見える形で造形しようとし、建物の各部をはっきり分かれた要素としてまとめ、世界のすべての地域に普遍的に建てられる国際様式(International Style) となることを目指したことは、機械の持つ三つの特性をそのまま反映しているかのようである。

 CIAMは近代社会における建築のあり方を見抜いた帰結として、都市に対するイメージを追い求める。都市像の追究、建築相互の結びつきの追究こそ、CIAMの一貫したモティーフであった。それが結実するのは、CIAMの第4回大会においてまとめられた「アテネ憲章」によってである。ここにはCIAMの、そして近代建築の都市把握がもっとも鮮明に現れている(「アテネ憲章」の中では、住居、余暇、勤労、交通、歴史的遺産の五項目に分解して都市が考察される)。
 
 CIAMの大会は、第6回までは都市要素の個別的検討をそのテーマとするが、第6回以降は、各要素間をまとめあげる提案、つなぎの要素の模索に費やされることになる。そしてその限界性が表面に現れた1956年の第10回大会をもって、CIAMはその歴史を閉じる。

 CIAMは建築や都市のイメージを追求する国際的な場であると同時に、建築家という存在を世界にアピールするスポークスマンとしての役割も果たしてきた。そこに浮かび上がるアーキテクト像は、近代建築を推進するイデオローグとしての建築家であったが、それによって建築家の世界が拡大されたことの功績は大きい。


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7. 近代主義建築のもうひとつの流れ [デザイン/建築]



ルドルフ・シュタイナーの建築思想

 近代建築やモダンデザインの運動の背景には、産業革命と並行して生まれた18世紀以来の西欧文化の新たな思潮、たとえば、ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau 1712-1778)の合自然性という考え方に連携を持つ教育実践家ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ(Johann Heinrich Pestalozzi 1746-1827)や、その影響を受けたフリードリヒ・フレーベル(Friedrich Wilhelm August Fröbel 1782-1852)の全人格的な教育運動の流れ、ゲーテの思想を継承するルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner 1861-1925)の人智学(Anthroposophie)の運動などの流れがあったことも忘れてはいけない。また、建築が芸術と決別し、建築家が芸術家から高級専門職へと転身を果たした時代、ヨーロッパでは逆に、建築と芸術を再統合する動きも現れ、これらも結果的にデザイン近代化の推進力となった。近代建築の黎明期、建築家たちは無抵抗に新時代の合理主義、機能主義に迎合していたわけではない。

 幼稚園の創始者フリードリヒ・フレーベルはもともとは建築家だった。彼は、生物や無生物が共存している「自然有機体」の発想の下で、子どもたちが先天的に有する「共同感情」に即して「合自然性」を提供することに腐心、自己教育手段である遊具や作業具も自然から学ぶ環境があってこそ、本来の魅力を発揮すると考えていた。同時に、身体で感ずることが世界を知ることの出発点であると捉えていた。

 フレーベルは幼児の無垢な心、たとえばごっこ遊びのような自由な「見立て」の空想、あるいは象徴思考の大切さを認識し、その心を豊かに育むための教育遊具として「恩物(1838 Gabe, Gift)」を考案する。象徴思考はしばしば概念思考へと向かう段階で失われ、既成概念で縛られていくが、「恩物」は子どもたちに、形と意味の関係の象徴的な世界(イメージ)を広げていくだけでなく、手でつかみながら、数や力の抽象的関係の世界をも把握する(ドイツ語の「概念」という語は「手でつかむ」という語に由来する)きっかけを与えた。

 実はバウハウスの基礎教育は、無垢な心を持つ「子ども」に戻す試みだったとも言われており、バウハウスでも積み木「バウスピール(Bauhaus-Bauspiel)」を使った教育が行われていた。フランク・ロイド・ライトも幼少期にフレーベルの「恩物」で遊んだ感触が、建築家として活躍してからも指先に残っていたと述べている。

 人智学者で建築も手掛けたルドルフ・シュタイナーは、現代の機械工業的環境に生きる私たちは、ウィリアム・モリスのように機械から逃避し、自然の中へ隠遁するよりも、その状況を運命と捉え、芸術によって「均衡」を得ることができると述べている。人智学で建築は、もっとも外的な芸術と考えられ、均衡の象徴でもあり、諸芸術の融和の始まりとして捉えられてきた。一方で、産業革命と並行して登場した近代的な都市の中、純粋化の過程で総合芸術としての性格を失っていく建築を憂い、再び建築の下に諸芸術を再統合することを目指す活動があった。例えば初期のバウハウスや一部のアール・ヌーヴォーの作家たちの試みだ。建築と芸術が不可分だった中世のゴシック建築を、人間の空間の理想と考えた。

 1898年のニーチェ全集(Friedrich Wilhelm Nietzsche 1844-1900) の出版は、個性の力と価値を尊重する思潮を生み、唯物論から個人を解放し、個の判断による価値観を前提とした社会を育んでいった。こうした意識の変化も建築やデザインを大きく動かしていく。

 この頃、中欧では、国力増強や機械生産性向上のための合理化や規格化の研究も盛んになる。こうした動きに対して、芸術と相容れない非人間的な日用品が市場に溢れることに異議を唱える者もいた。アール・ヌーヴォーを代表する造形作家アンリィ・ヴァン・デ・ヴェルデ(Henry van de Velde 1863-1957)もその一人だ。同様に、機能純化され幾何学フォルムに向かう近代建築に対し、有機的な考え方や動植物の形態に空間の合理性を獲得しようとする、ガウディやフーゴー・ヘーリンク(Hugo Häring 1882-1958)のような建築家も現れ、建築を生命体と見立てる視点も生まれた。建築は生きているという考え方は、シュタイナーの建築思想にも重なる。

 シュタイナーの建築には、単なる自然の模倣ではなく、自然界の原理で建築を捉えることで、建築と細部に生きた関係を導き出す考えがあった。彼は、自然主義的に模倣することと有機体の中に生きている自然の創造力を体験することと区別している。彼が手掛けた代表的な建築が、スイス・ドルナッハ(Dornach)に建つ「ゲーテアヌム(1926-29 Goetheanum)」だ。この建築は「第二ゲーテアヌム(Zweites Goetheanum)」とも呼ばれ、木造で設計され1922年に完成した「第一ゲーテアヌム(Erstes Goetheanum)」は同年、放火により焼失している。シュタイナー自身は1925年の「第二ゲーテアヌム」着工直後に死去している。様式についてシュタイナーは、次のように述べている。
 「人智学=精神科学は相対的な人間学から生まれるものであるからこそ、この建築になにかある任意の建築様式を選んできてこれに当てはめるような矛盾を犯すわけにはゆかなかった。これは理論を越えたものであり、生命である。だからこそこの精神科学は単にその核を与えるのみならず、その殻をもまたその固有のフォルムによって与えなければならなかった」(1921 Der Baugedanke des Goetheanum)。

 表現主義建築で知られるエーリヒ・メンデルスゾーン(Erich Mendelsohn 1887-1953)は、近代建築の問題解決には「ガラスの世界の使徒。空間の諸要素の分析者。材料と構造による形態の探求者。」の活動が必要であると説き、「近代建築の問題(1919 Das Gesamtschaffen des Architekten)」に次のように記している。
 「新たな意志のみが、その混沌たる刺激の無意識さのうちに、その普遍的なとらえ方の根源性のうちに、未来そのものをもっているのだ。なぜなら、人類の歴史の発展にとって決定的であった時期が、すべて、その時代精神の意志のもとに、知られるかぎりの世界全体を統一していたように、われわれが待ち望んでいる時期もまた、特定の地域をこえ、ヨーロッパをこえて、あらゆる民族に幸いをもたらすものでなければならない。だからといって、私はけっしてインターナショナルスタイルを弁護するものではない。インターナショナリズムというのは、崩壊した世界の、民族をぬきにして唯美主義を意味するものだからである。だが、超国家性とは国民的な限界を前提として含むものであり、自由な人間性であり、そうした人間性のみがふたたび包括的な文化をうちたてることができるのである」。

バウハウス──芸術と建築の統合

 アール・ヌーヴォーの背景を再び振り返ってみよう。かつて建築はその時代時代の様式を纏ってきたが、19世紀は唯一絶対の時代様式が存在せず、建築家たちは過去の様式を設計の基本に据え、ゴシック様式や古典主義によって建築を発想していた。主観より客観を重んずる唯物論的な傾向は、建築に対しても歴史的実証性を要求し、建築家たちは自作の建築が歴史的由緒で設計され、客観的な正しさを保証するために様式は用いられていた。しかし、過去の美意識に捕われず、個人の力と価値を信じる新興市民の間では、客観的様式や折衷主義に対する懐疑の念も湧き上がってくる。アール・ヌーヴォーの新様式の模索はそこに芽生えた造形と言っていい。

 アール・ヌーヴォーの作家たちの間には、純粋芸術(絵画や彫刻)と応用芸術(工芸)の垣根を取り払い、両者を等価値に扱い、総合芸術作品として建築の下にすべての芸術を統合しようと試みる動きもあった。こうした潮流が、ヴァイマール工芸学校(Kunstgewerbeschule Weimar)の校長を務めたヘンリィ・ヴァン・デ・ヴェルデを経て、同校を母体とするバウハウス、ヴァルター・グロピウスのバウハウス綱領(1919 Bauhaus-Manifesto)へとつながっていく。

 ドイツでは第一次大戦を経て1918年に共和主義(Republicanism)革命の下、ヴァイマール共和国(Weimarer Republik)が誕生。歴史上まれにみる戦争を経験した芸術家たちは、戦争での陰惨な体験をさまざまな表現で世に還元し、西欧では人道主義精神が高まっていく。ヴァイマールでは、1917年のロシア革命で主導権を握った兵士・学術者評議会に倣い、ブルーノ・タウトを議長とする芸術労働評議会が結成された。1919年にはヴァイマール国立バウハウス綱領と宣言が発表され、同年4月ベルリンでは芸術労働評議会の主催による無名建築家展(Ausstellung für unbekannte Architekten, Exhibition of Unknown Architects)が開催される。

 この展覧会では「建築芸術とはいったい何か。それは人間のもっとも高貴な思想、その情熱、その人間性、その信仰、その宗教の透明な表現だろう。偉大な唯一の芸術、つまり建築を忘れ去ったわれわれの世代……(中略)建築家、画家、彫刻家の諸君、われわれはすべて手工作へ立ち返らねばならないのだ。なぜなら『職業としての芸術』など存在しないからだ」とする宣言文がパンフレットに掲載される。これは「すべての造形活動の最終目標は完璧な建築である」から始まるグロピウスのバウハウス綱領とほぼ同じ内容だった。

 グロピウスとタウトは諸芸術を「建築」のもとに再統合しようとする大きな望みを抱いていた。グロピウスによって命名された「バウハウス」の名には、芸術と建築が未分化だった時代、中世のゴシック大聖堂を築いた無名の工匠集団バウヒュッテ(Bauhütte)の理想のイメージが重ねられ、「建築と芸術の再統合」を象徴する命名だったことが窺える。

 一方、バウハウスにも大きな影響を与えた、オランダのデ・スティルも、視覚芸術を建築空間に統合する試みに挑んでいた。デ・スティルの中心人物テオ・ファン・ドゥースブルフ(Theo van Doesburg 1883-1931)が提唱する造形原理とは、「構成要素は、これ以上分解することができないいくつかの基本要素にまで還元され、その上でこれらの要素は、あらゆる造形において、中心がなく、均一に、相互が重要な役割をもつように関係づけられた、分かちがたい全体の空間へ統合される」(2007「国際構成主義 中欧モダニズム再考」谷本尚子)ものだった。家具職人でもあったヘリット・リートフェルト(Gerrit Thomas Rietveld 1888-1964)が設計した「シュレーダー邸」(1924 Schröderhuis)は、その造形原理の体現でもある。

 バウハウスが設立された翌年1920年、モスクワ(Moscow)にも新しい造形学校ヴフテマス(VKhUTEMAS, VKhUTEIN)が開校する。当時、国際社会から外交的孤立していたドイツとロシアに先進的な造形学校が誕生したことになる。
 ヴフテマスではアレクサンドル・ロトチェンコ(Aleksander Mikhailovich Rodchenko 1891-1956)の造形・デザイン教育を通して産業工芸的な概念が具現化された。ヴァシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky, Vassily Kandinsky 1866-1944)、ロトチェンコ、リューボフ・ポポーヴァ(Liubov S. Popova 1889-1924)、エル・リシツキー(El Lissitzky 1890-1941)らが同校で講師を務めていた。ロトチェンコは基礎部門で点と線、静的な線、平面、ボリューム表現の4分野を担当し、まず平面から陶芸、木工、金工へと展開するカリキュラムをつくりあげた。

 当時のソヴィエト連邦(Soviet Union, USSR, CCCP)は、ネップ(1921~26 NEP, Novaya ekonomicheskaya politika)の時代に指導者レーニン(Vladimir Lenin 1870-1924)が資本主義を一部導入、西側との和解を促した。この時代、ロトチェンコは、1925年にパリで開催された装飾美術・工業美術国際展覧会(アール・デコ展)に、木造二階建ての「ソヴィエト・パヴィリオン」を手がけ、革命後の社会主義政権が目指す理想のライフスタイルを展示する。建築設計を担当したのはコンスタンチン・メリニコフ(Konstantin Stepanovitch Melnikov 1890-1974)。ロトチェンコは館内の「労働者クラブ」のインテリアをデザインしている。

 この二つの造形学校は1923年に転機を迎える。産業との関係が強化され、次第に生産効率を向上するための訓練機関的な意味合いを強くしていくのだ。

 ドイツは戦後のインフレを克服し、アメリカ資本の導入による経済再興の機運が高まると、それと歩を合わせるように、バウハウスでは、「建築と芸術の再統合」よりも、デザインを芸術と近代機械産業の結合として捉える姿勢が強く打ち出されるようになる。予科教育を担当しバウハウスの実質的な主導者だったヨハネス・イッテン(Johannes Itten 1888-1967)は、1923年、産業との連携を推進する合理主義のグロピウスと袂を分かち離校してしまう。このバウハウスの変革には、1921年にドゥースブルフが行った講義で、同校のロマン主義的傾向を批判したことの影響があったと言われている。

 ヨハネス・イッテンは美術教育の根本的な変革を目指した基礎教育課程(予備課程)をバウハウスに導入した教育者で、イッテンがバウハウスを去った後はヨーゼフ・アルベルス(Josef Albers 1888-1976)とモホリ=ナジ・ラースロー(Moholy-Nagy László 1895-1946)が予科を引き継ぎ、デザイン教育の基礎教育課程として基礎づけられていく。教育学を習得したイッテンは、美術の才能は天賦のものではなく、教育と訓練によってその才能は身に付くと考えた。彼の独自の予科教育カリキュラムは、その後の美術デザイン教育に大きな影響を与えた。

人体・身体と建築

 1907年、ガウディは「カサ・ミラ(Casa Milà)」を、シュタイナーは「デゥルデックの家(Haus Duldeck)」を手掛けるが、両者の造形にからは不思議な共時性が感じられる。建築家の上松佑二(1942-)は「世界観としての建築」で、ガウディの書斎には、シュタイナーが編纂した「ゲーテの自然科学論文集(1883-1897 Goethes Naturwissenschaftliche Schriften, Goethean science)」があった書いている。両者は植物のメタモルフォーゼ論を介してつながっていたのである。ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 1749-1832)は自然の生成の中、動植物の生成の中に収縮と拡張という形態生成の法則を原現象として発見する。植物のメタモルフォーゼ論(Die Metamorphose der Pflanzen)は、シュタイナーの建築はもちろん、表現主義建築家たちにも影響を与えた。ガウディもシュタイナーも、建築は生きているという立場に立ち、造形に曲面を多用する形態だけの有機的建築とは一線を画している。

 1919年、ドイツの表現主義建築家フーゴー・ヘーリンクは、ノイ・ウルム(Neu-Ulm)に「ローマー邸(Römervilla)」を設計する。彼は、近代建築の非人間性を回避すべく、幾何学や合理主義に代わる理論を求めていた建築家だった。ヘーリンクが目指した建築はOrganとしての建築である。その建築は人智学からの影響を強く受け、建築とは人間の肉体の一部の器官(Organ)として作用すると考え、建築を生物そのものと捉えていた。

 20世紀始め、造形・装飾の「器官」としての作用に気づき、装飾の決定に歴史的客観性ではなく、器官としての合理性を採り入れた先駆者はヘンリィ・ヴァン・デ・ヴェルデだった。彼は装飾を、対象の機能や構造との有機的関係をもった一種の器官と見なす有機的装飾論に行き着いていた。「線は力である」として、線の持つ生命力や、意味を介さずに直接人間の感覚に働きかける能力に着目し、「装飾は一つの器官(Organ)となり、単に貼り付けられたものであることを拒否する」と「工芸のルネサンス」(1901 Die Renaissance im modernen Kunstgewerbe)に記している。

 もともと画家志望だったヴァン・デ・ヴェルデがデザインや建築へと転じていったのは、モリスのアーツアンドクラフツ運動の道徳観や倫理観に感銘をうけたからだ。彼は、この運動が理想としていた原始共同体のようなユートピア社会に共感し、折衷主義のデザイン建築によって汚されている目前の社会環境を浄化することが、自らの使命と考えていた。しかし彼は、単純に、機械生産が無価値で、工業が芸術の貧困を招くと見ていたわけではなく、「芸術産業にかかわるものは、将来自分たちの名声は自分たちの工業で生産された品物の美的、または倫理的な価値で決まるようになるのだ、ということをわきまえる必要があった」として、工業生産のための見本品の制作や素材の選択こそ芸術家の手になるべきだとも主張している。

 また戦後、フランスの構造設計者ロベール・ル・リコレ (Robert Le Ricolais 1894–1977)は、1954年より、化学分析的視点から自然の造形と構造の研究を始め、体重のわずか1/5の重量で身体を支える究極の構造体「人骨」の秘密を探り出した。その強度の秘密は脛骨の拡大写真に見られる骨内部の空隙にあることを明らかにしている。

中世建築への夢

 19世紀末から20世紀初頭、有機的建築と呼ばれる作品を設計した建築家には、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトとフィンランドの建築家アルヴァ・アールト(Alvar Aalto 1898-1976)がいる。ライトが1880年代に手がけた、アメリカの広大な草原と造形的にも精神的にも融合した建築群は、ビクトリア様式の重厚な建築に憧れを抱いていたアメリカ人の意識を変革させる力を秘めていた。ライトは自らの建築を「有機的建築(Organic Architecture)」と称したが、ここで言う「有機的」とは、建築は機能主義一辺倒ではなく、外部と調和し、人の有機的な生活を反映させたものであるべきだとする理念から導き出された言葉だった。一方、アールトは自身の作品を有機的であると述べたことはない。彼は初期のバウハウス同様、芸術家と職人の区別はなく、芸術と技術は一つの理想で建築に統合されていた中世の建築を理想としていた。実際、建築家アールトは中世の文化から多くを学び、中世の建築の多くは無名の建築家の手になるもので、それでいて素朴で人間的な美しさに満ちていると賞した。ルネッサンスは中世の暗闇から抑圧された人間を解放したといわれるが、建築に関してグルピウスやアールトは、真逆の評価を与えていたようだ。

 アールトに師事した建築家武藤章(1931-1985)は、アールトが「中世の建築を愛するのは、人間のための空間を持っていたからであり、技術一辺倒の当時流行の建築に危惧を抱き手工業的な建築に熱中した。それは20世紀の文明が人間のための空間を失うことを恐れたからである」(1969「アルヴァ・アアルト」)と記している。アールトが家具にスチールパイプを用いなかったのも、金属の非人間性を嫌ったからと言われている。

 彼は、木工で秀でた仕事を残したアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデを敬愛しており、1946年のチューリヒ(Zürich)の展示会では「われわれの時代の建築の偉大なパイオニアであり、木の技術の革命を直感した最初の人であるアンリィ・ヴァン・デ・ヴェルデに捧ぐ」という謝辞を残していた。

 1904年、フィンランドでは「ヘルシンキ駅」設計コンペで、サーリネンのロマンティック・ナショナリズム的な案が審査員に絶賛され一等に選ばれるが、これに異を唱えた一人が、ヘルシンキ工科大学でアールトを教えたシグルド・フロステルス(Sigurd Frosterus 1876-1956)だった。このコンペの直前まで、フロステルはヴァン・デ・ヴェルデのアトリエで建築の仕事を手伝っていた。彼は「われわれはもはや狩猟や漁撈によって生活していない。したがって植物の装飾や、熊(他の動物でも同じこと)は蒸気と電気の時代を表現しはしない」として、サーリネンの案に対し新聞紙上で次のような抗議声明文を発表する。「正当性を確かめることなく昔の様式を用いるのは、裸のままで歩きまわり、指をつかって食事をし、鉄砲の代わりに弓矢を使うのと同じように無意味なことだ。(中略)建物はもはや単なる絵のような姿、また大きな死んで動かない塊りではない。それは目的に従って行動し、環境に適合していく有機体なのである」。

 彼らの主張はロマンティック・ナショナリズムの熱狂を一気に冷まし、結果的にサーリネンも合理主義的な配慮を窺わせるヘルシンキ駅修正案を提出することになる。



生とデザイン―かたちの詩学〈1〉 (中公文庫)

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  • 作者: 向井 周太郎
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2008/09
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デザインの原像―かたちの詩学〈2〉 (中公文庫)

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  • 作者: 向井 周太郎
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2009/01
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シュタイナー・建築―そして、建築が人間になる

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  • 作者: 上松 佑二
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1998/03
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世界観としての建築―ルドルフ・シュタイナー論 (1974年)

世界観としての建築―ルドルフ・シュタイナー論 (1974年)

  • 作者: 上松 佑二
  • 出版社/メーカー: 相模書房
  • 発売日: 1974
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アルヴァ・アアルト (SD選書 34)

アルヴァ・アアルト (SD選書 34)

  • 作者: 武藤 章
  • 出版社/メーカー: 鹿島出版会
  • 発売日: 1969/03/05
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国際構成主義―中欧モダニズム思考

国際構成主義―中欧モダニズム思考

  • 作者: 谷本 尚子
  • 出版社/メーカー: 世界思想社
  • 発売日: 2007/03
  • メディア: 単行本





ルドルフ・シュタイナーの黒板絵

ルドルフ・シュタイナーの黒板絵

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 日東書院本社
  • 発売日: 2014/03/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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8. アール・デコの街 [デザイン/建築]

アール・デコ展

 アール・デコ(Art Déco)とは、1925年にパリで開催された装飾美術・工業美術国際展覧会(アール・デコ展)でもっとも成功を収めた新しい様式のことである。

この博覧会は「アール・デコ」の名の由来となり、同時にアール・デコはこの博覧会の開催年をとって「1925年様式」とも呼ばれることになる。アール・デコ様式は、1966年に「パリ装飾美術博物館(Musée des arts décoratifs de Paris)」で開催された展覧会「Les Années"25"」で再評価され、1980年代初頭にポスト・モダンの建築家や、ミラノのデザイナー集団メンフィス(Memphis)などがアール・デコを引用し、また注目された。それはなぜなのだろうか。アール・デコという、ノスタルジックな様式をもう一度振り返ってみよう。

 装飾美術・工業美術国際博覧会には、長い前史がある。
 この博覧会の起源は、アール・ヌーヴォーの花開いた19世紀末のパリに遡る。1900年にパリで開かれた万国博覧会には、19世紀の最後を飾るに相応しい華麗な装飾芸術作品の出展も見られ、その機運の盛り上がりによって、翌1901年に装飾美術家協会が設立された。これは、純粋芸術に対し、日々の生活に用いられるべき応用芸術の存在を主張するものでもあった。

 応用芸術あるいは装飾美術、美術工芸などと称されるジャンルは、純粋芸術に比べてひとつ格の落ちるものと見なされがちであった。応用芸術の存在を認め、その価値を主張するのは、19世紀後半の英国に起きたアーツ・アンド・クラフツ運動である。アーツ・アンド・クラフツ運動の中心となったウィリアム・モリスやチャールズ・ロバート・アシュビー(Charles Robert Ashbee 1863-1942)らは、生活を豊かにする品々を芸術性豊かにすることこそ、生活の真の向上であり、解放であると信じた。この主張は、ドイツ・オーストリアでは工作連盟(Werkbund)という運動となって20世紀に引き継がれていく。そこでは、積極的に機械生産による品物のデザインを課題に採り上げる態度が見られた。

 フランスの装飾美術家協会も、こうした世界的な機運と無縁のものではなかった。しかもフランスの場合、1903年にサロン・ドートンヌ(Salon d'automne)という新しい民間の芸術展が組織されていた。このサロン・ドートンヌは1904年には写真部門、1905年には音楽部門を設け、1906年にはそれまであった純粋美術と装飾美術の区別を廃止し、すべてを同格に扱うという方針を打ち出した。この方針から、1910年にはドイツの工作連盟の作家たちの作品展がサロン・ドートンヌに招待出品された。この衝撃は大きく、フランスでも、もっと積極的に機械製品のためのデザインを開拓すべきであり、その契機となる国際展の開催が強く求められた。

 装飾美術協会は、それ以前からも一部で望まれていた、装飾美術の国際展開催の要望書を1911年に政府に提出し、政府も1915年の開催に向けて動き始める。しかし、1914年の第一次世界大戦の勃発は、この展覧会の開催予定時期を翌15年から16年に、さらには18年、24年へと次々に遅れさせていった。結局、1925年4月から6カ月間の会期で開催されることが本決まりになった時には、展覧会名は、工業美術を加え装飾美術・工業美術国際展覧会となっていた。パリで開かれる国際博覧会としては、1900年の万国博覧会以来、実に四半世紀ぶりの開催である。

 準備の遅れ、計画の延期の重なりは、博覧会に出品される作品の性格、そこに表現される造形の性格も変えた。博覧会ではあらゆるジャンルの装飾・工業美術が、素材別、ジャンル別に出品されることになった。それは、建築、建築装飾、家具、衣装や装身具、舞台芸術、庭園、美術教育、写真や映画に分類され、この広範囲な出品物の中から、アール・デコと呼ばれる造形が後世に知られるようになるのである。

 この博覧会の性格を知る上で興味深いエピソードを付け加えておく。それはアメリカがこの博覧会には参加していないことだ。この博覧会にはオーストリア、ベルギー、ソビエト連邦を始め、中国、日本に至る諸外国、そしてフランスの21の地方が出品したが、アメリカとドイツは参加していない。かつて工作連盟の作家たちによって大きな衝撃を与えたドイツは、第一次世界大戦の敵国だったため、戦後の博覧会には不参加だったが、アメリカは博覧会の名称(International Exposition of Modern Industrial and Decorative Arts)にあった「Modern(現代)」という言葉を誤解し、自国にある装飾・工業美術は「現代」の概念には当てはまらないと考えて参加を控えたとされている。

実際には、1920年代、30年代のアール・デコの隆盛とアメリカは切り離しては考えられない。二つの世界大戦の狭間、大恐慌にあえぐアメリカに光をともしたのがアール・デコだった。装飾美術・工業美術国際展覧会に出展された、家具作家ジャック=エミール・ルールマン(Émile-Jacques Ruhlmann 1879-1933)のパビリオンが、1926年からアメリカを巡回、都市部でアールデコ人気が沸騰する。世界一の工業力により量産されるアール・デコ風の流線型デザインが市場を席巻し、ノーマン・ベル・ゲディス(Norman Bel Geddes 1893-1958)、ヘンリー・ドレイフュス(Henry Dreyfuss 1904-1972)、レイモンド・ロウイー(Raymond Loewy 1893-1986) などの工業デザイナーの台頭を生んだ。

アール・デコの時代

 アール・デコの時代は、いわゆる両大戦間期で、アール・デコの別称、ジャズモダンという名は、この時期のアメリカの雰囲気をよく伝えている。同じようにアール・デコのことをポワレ様式、シャネル様式と、服飾デザイナーであるポール・ポワレ(Paul Poiret 1879-1944)やココ・シャネル(Coco Chanel 1883-1971)の名で呼ぶことも、大陸における両大戦間の気分を感じさせてくれる。アール・デコの様式の精華が、大西洋航路の客船のインテリアに見られ、日本のアール・デコ装飾も、欧州航路の豪華客船に数多く試みられたことも、束の間の平和な海を感じさせてくれる。多くの船室のインテリアは、後の第二次世界大戦中に船とともに海の藻屑と消え去った。アール・デコは第二次世界大戦によって亡びたという実感が、そこから湧き上がる。

 アール・デコに対するもう一群の別称はパリ25年様式、1925年様式、1925年モードなどであり、これらはいずれもその年の装飾美術・工業美術国際博覧会を意識したものである。博覧会もまた、時代の最先端を示す試みではあっても、束の間の幻影であり、それゆえにこそ冒険の行える場であった。

 両大戦間期という、ヨーロッパの伝統が味わった最後の束の間の休息期、そこに生き、そしてその時代とともに亡んでいった様式がアール・デコなのであろうか。アール・デコは歴史的に考えれば、1920年代から30年代にかけての、短い流行に過ぎない。それは19世紀末のアール・ヌーヴォーのはかなく消えた流行の、姿を変えた再生であり消滅であり、ひとつの時代の気分、生活の束の間のスタイルであったといえるかもしれない。

 しかし、アール・ヌーヴォーとアール・デコの間に流れた30年にも満たない年月の間に、装飾芸術の根本的な性格が一変していたことを見過ごすことはできない。その間に、装飾芸術は一品ずつつくられる芸術品としての性格から、大量に生産され消費される商品としての性格へと、その本質を変化させていった。ジャズモダンもシャネル様式も、消費と商品の時代を象徴する言葉である。

 純粋芸術と応用芸術、あるいは純粋美術と応用美術という区別は、自立した作品である純粋芸術を、何かに付属し、何かの商品価値を高めるための芸術から区別し、引き離すためのものであった。この二つの芸術が対立するもののように意識されるのは、応用芸術や装飾芸術が独立し、力を強めていくからだ。商品としてデザインされたものを人々が購い、それを自分たちの生活の中に持ち込むという形式が20世紀の初頭には定着してくる。

 自動車のマスコット、化粧品、衣服、書物、家具、食器、そして商店やレストラン、都市内の集合住居も、すべて既成品として、レディ・メイドのデザインの品物として登場してくる。アール・デコの本領はこうした分野に発揮された。それは商品化され、人の手から手へと飛び交うデザインなのである。

 アール・ヌーヴォーの装飾は、初めて近代的な都市というものが成立したところに生じた文化であった。19世紀都市の中心部の盛り場は、都市の雑踏そのままである。それまでの、中世的な都市の盛り場が、どれほどの賑わいを示そうとも地縁中心であったのに対して、19世紀に獲得された新しい盛り場の本質は、地縁的しがらみからから解き放たれた都市性にあった。

 こうした盛り場では、人々はどこの誰とも知られず、誰とも知らない人々の間で、都市の文化の時間を過ごす。そこに生まれる都市の文化は一種の匿名性に支えられた人工性の高い文化となり、表面の賑わいとは裏腹に、一種の孤独を漂わせた文化となっていく。19世紀末の都市の文化とは、まさしくそうしたものであり、そこに現れる謎めいた造形上のモティーフの多くは、人工の神話と言えるものだった。

 しかしアール・デコの時代には、都市の盛り場そのものが、商品としての性格をもって浮遊するようになる。そこに満ち溢れる品々は、都市の個性に固定されたものではなく、都市を離れても存在し続ける商品である。商品は買われ、選ばれ、無数の生活の中に浸透していく。自動車は未曾有の速さで人々を移動させ、汽船は未知の規模の空間ぐるみ大海を移動して大陸を結びつける。商品の種類と数量はどんどん拡大していった。

 アール・ヌーヴォーの造形が、果てしなく物の表面を覆いながら広がっていく曲線であったのに対して、アール・デコの造形が硬質で光沢に満ち、屈曲し放射状に広がるのは、この時代に都市内のあらゆる文化が浮遊し、電波のように飛び交い、飛翔し始めたことと無関係ではない。アール・デコの時代に、デザインは地縁性を払拭するのは無論のこと、建物や都市の表面を覆うこともやめ、離脱し始めたのである。流線形、電波イメージとされるジグザグ曲線、反射する光を想起させる光沢……これらはこの時代の造形が離陸し、飛翔するイメージを孕んでいたことを示している。

 建築のデザインも例外ではありえない。ロシア構成主義(Russian Constructivism, Constructivism)の作家たちのデザインは、大地に縛られた重い構築的な建築を否定し、アメリカのスカイスクレイパーはその頂部にさまざまなモティーフの「放射する」イメージを頂き、ル・コルビュジエは文字通り大地から離陸するピロティという概念を提示する。さまざまなイズムに分類されるこの時期の建築は、実は「離陸」という共通のイメージを持っていたのではないか。

 1925年の装飾美術・工業美術国際博覧会には、そうした多様な傾向の建築群が、アール・デコという名の下に集まりえた。建築家の理念、主張はさまざまである。けれども、その造形感覚の内には、共通した離陸への期待、飛翔への決意、放射と拡散への憧憬が見出せないだろうか。

 CIAMに結実し、近代建築の主流を形成していく建築家たちは、商品によって満たされる社会を批判し、一種の社会主義的ユートピアを主張した。しかし、その造形を虚心に眺めるなら、そこには予想外にアール・デコと近しい造形が見出される。しかも、近代建築の理想が達成された第二次世界大戦後には、世界は皮肉にも商品化された近代デザインに満ち満ちたのであった。

コマーシャル表現の再認識

 「パリ1925年様式」と言われても、それは既に90年前のことになってしまった。過去の様式が今私たちに何を与え、何を語るのか。

 アール・デコは、動きの造形である。しかもその動きとは、アール・ヌーヴォーの造形が成長という生物的・生命的な動きを可視化しようとしていたのに対して、メカニックで物理現象的な動きである。

 アール・デコのコスチュームを身にまとった女性の髪の毛の動きやマフラーの流れは、風にそよぐ柳の枝のゆらめきではなく、流線形のオープンカーでドライブする髪の流れだ。アール・デコの造形はエンジンの動き、電波や光線の放射や反射をイメージさせる。それは人間の肉体の速度を超えたスピード感覚である。

 目の眩むばかりのスピード、距離、空間、アール・デコの造形を生み出した人々は、こうしたイメージの曙光を感じ、その予感に打ち震えながら、造形をつくりあげたに違いない。アール・デコのスリリングな輝きは、そうした彼らの内面の鼓動のビートに支えられている。以後、定期的に起こるアール・デコのブームには、彼らの感動の出発点、彼らの発見のはつらつたるポテンシャルへのあこがれも感じられる。

 アール・デコは応用芸術や装飾芸術と言われるものが、近代と対面した時に避けて通ることのできない商品化された造形という課題に、初めて応えたものだった。アール・デコが刺激的なのは、商品化された造形の示す緊張感が、今も失われることなくそこに脈打っているからだ。近代建築史、近代デザイン史を、デザインや建築の理想史、運動史として考えるのではなく、現実の造形が社会に直面してきた軌跡として見直す時、アール・デコの輝きは改めて驚きの対象となる。

 商品あるいはコマーシャルな作品という点では、アーツ・アンド・クラフツ運動→ドイツ工作連盟→バウハウス→CIAMという系譜は十分な成果を上げたとは言えない。社会全体に対して、新しい造形を商品としても成立させようとする闘いの歴史がこの系譜であったが、それはやはり芸術運動として、芸術作品や芸術的イメージをつくりだすことに傾きがちであった。それに対しアール・ヌーヴォー→アール・デコという系譜は、コマーシャルな造形をその出発点に据えた試みの流れだと言える。

 20世紀の初頭の大都市は、きらびやかな大建築で埋められていったが、そこに用いられた様式は、19世紀パリの「オペラ座(1875 Opéra Garnier)」に見られるようなネオ・バロックと呼ばれる様式であり、アール・デコはそうした様式とも共存して大建築に用いられた。アール・デコの造形が持っている影響力の広がり、その影響力の深さ、その持続力は、もう一度私たちに20世紀精神の夢とはどのような世界にまで広がりうるのかを考えさせる。コマーシャルな芸術の重要性が高まる中でアール・デコの再認識が同時進行していたことの意味を、十分に考えておく必要があるだろう。コマーシャルと現代における物離れ、表層化、メディア化という位相は、すべてアール・デコと無縁ではない。

アール・デコの再評価

 アール・デコが再び注目を集めるのは、戦争が終わり、消費と都市の光が蘇った60年代だ。66年にパリ装飾美術博物館で開催された展覧会「Les Années"25"」でアール・デコはデザインとしてようやく評価される。特にファッション業界が、アール・デコ装飾が内包する都市の輝きと退廃に敏感に反応し、世界的なリバイバルのブームを先導した。ところが70年代に入ると、中東紛争によるオイルショックと経済混乱によって、都市の光が失われ、アール・デコはまたも衰退していく。
 そして80年代半ば、禁欲的になりすぎたモダンデザインと、建築の技術至上主義的な表現に対し、一部の建築家たちが物語性に富んだ、どこかアイロニカルなデザインを提案し人々の共感を呼んだ。ポストモダンと呼ばれる代表的な建築家、マイケル・グレイヴスやハンス・ホラインは、アール・デコ風のモチーフを建築に大胆に用いて人々を驚かせた。彼らはフィクションとしての都市文化の象徴をアール・デコに求めたとも言える。エットーレ・ソットサスを中心とするデザインムーブメント「メンフィス」にも、アール・デコの影響が窺えた。だがこの動きも、90年代の不況で失速し、デザインも美術も、80年代の反動とも思えるミニマルブームへと向かっていった。
 こうしてアール・デコの流れを俯瞰すると、都市文化の光と陰、平和と混乱、富と禁欲の、20年周期で復活を繰り返しているのが分かる。





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9. 非西欧からの発言 [デザイン/建築]



三本の糸

 マカオ(Macau, 澳門)という元植民地を考えてみよう。
 香港(Hong Kong)から船で簡単に渡ることのできるポルトガルの元植民地は、日本からの観光客も多く訪れる風光明媚な小都市である。

 マカオには中国寺院が数多く見られるが、遠いポルトガルの都市を思い起こさせる、南欧風の住宅やホテルも多く建てられている。マカオの観光名所となっている「聖ポール天主堂(the Church of St. Paul, 大三巴牌坊)」の遺跡も、イエズス会の教会の形式を忍ばせるヨーロッパ風の建物だ。
 こうした二つの要素の併存、すなわち中国とヨーロッパの要素が不思議に並び合っているのがマカオの魅力であるが、こういう風景は欧米以外の都市には、どこであれ多かれ少なかれ見出されるものである。

 日本の都市を考えてみても、私たちは普段意識しないが、どの町にも外国人観光客の目に日本的に映る寺院や家並みがあるものだ。

 しかし、そうした町並みにも近代建築は次々に建てられつつある。近代建築は国際様式と呼ばれることがあるように、世界のどこに建てられても、似たような姿をしている。こうした国際様式の建築が世界を制覇していくのは、第二次世界大戦後のことだ。世界の植民地のほとんどは独立を獲得し、それまでの宗主国の建築の伝統に範を求めた洋風建築に替わって、無国籍とも言うべき風情を漂わせた近代建築がそこに建てられていく。

 このような環境の中で、建築家たち、特に非西欧の建築家たちは悩みを感ずるようになる。非西欧の建築家たちは、自分たちの手の中に三本の糸が握らされているのに気づくからである。その三本の糸は、①自分たちの民族の建築の伝統、②近代化の基盤となった西欧の建築形式、③現代の無国籍とも言うべき近代建築、である。この三本の糸をどのように撚り合わせて、これからの建築をつくりあげていくべきなのか。あるいは、この三本の糸のうちの、一本だけが正しい導きの糸であり、その一本を探し出すことが自分たちの使命なのか。

 こうした悩みは、現在多かれ少なかれ、ほとんどの国の建築家が抱いていると言えよう。というのも、無国籍とも言うべき近代建築は今や世界のあらゆる都市に建っており、そうした状況の中で、かえって建築家たちは道に迷い始めているのである。

 かつて、非西欧諸国、特に植民地都市には、本国の建築的な伝統が本国以上に純粋な形で持ち込まれることが多かった。旧植民地都市の旧市街には、今では本国にも失われてしまった古き西欧の香りが残っている。それは、植民地を開発しようとした人々の郷愁の現れである場合もあり、本国を文字通り植民地にまで進出させようとする野心の現れである場合もあった。

 日本の明治政府も、自らの国の文明開化ぶりを西欧に示すために、赤レンガのヨーロッパ風の建築によって都市を飾ることに熱心であった。これは植民地における建築表現を裏返しにした、一種の国家的なジェスチュアであったと言えるだろう。

 と同時に、植民地都市などには、本国でも試みることのできなかった野心的な実験が行われることもあった。特に1911年にエドウィン・ラッチェンス卿(Sir Edwin Landseer Lutyens 1869-1944)により計画されたインドのニューデリー(New Delhi)、同じ1911年にウォルター・バーリー・グリフィン(Walter Burley Griffin 1876-1937)によって計画されたオーストラリアのキャンベラ(Canberra)などの都市は、放射状の道路網が重要な施設を直線で結ぶ、西欧のバロック的美意識によって貫かれた新都市計画であり、ヨーロッパではもう実現できない都市プランであった。

 ラッチェンスはニューデリーにインド風のモティーフを加味した「総督府(現インド大統領官邸, Rashtrapati Bhavan)」などを設計したが、そこにはインドの伝統に対する理解よりは、むしろインドの様式を、誠実にではあっても、西欧風に解釈しようとする姿勢が強かった。

 ニューデリーやキャンベラ以外にも、欧米の建築家が、いわゆる第三世界の都市を計画する例はいくつかある。ル・コルビュジエが計画したインドのチャンディーガル(Chandigarh)、ルイス・カーン(Louis Isadore Kahn 1901-1974)が設計したバングラディシュのダッカ(Dhaka)の建築群などがそれである。こうした計画では、西欧的な建築の表現と、土着の建築の伝統を、どのように捉え、どちらの糸を他の糸に組み合わせるかが、常に問われることになる。

 そうした問題を考える時に、常に引き合いに出されるのが、ブラジルの新都市ブラジリア(Brasília)だろう。1957年にフランス生まれのブラジルの建築家、ルシオ・コスタ(Lucio Costa 1902-1998)によって計画されたブラジリアは、巨大な飛行機あるいは翼を広げた鳥のような形をしていた。

 ここには、真の意味での国際様式の建築群が建設されたが、その結果は、近代の無国籍的な国際様式という糸だけを握っていたのでは、建築家は真の未来を切り拓くことはできないのではないかという気持ちを抱かせるものだった。

 当時、失敗例と見なされたブラジリア開発を反面教師としたクリティーバ・マスター・プラン(Curitiba Master Plan)は、1950年代に人口が倍増したブラジル・クリティーバ市に導入された、ヒューマンスケールで町並みを考える都市計画だった。1964年の新たな都市計画のマスタープランのコンペで最優秀賞を獲得した、当時、大学生だったジャメイ・レルネル(Jaime Lerner 1937-)ら、社会プロジェクト研究会の案が70年代に実施されたものだ。クリティーバは、1996年の第2回国際連合人間居住会議(HABITAT II)で「世界一革新的な都市」として表彰を受けている。

丹下健三の軌跡

 非西欧の建築の伝統の中から生まれた世界的な建築家に、丹下健三(1913-2005)がいる。
 1938年に大学を卒業し、前川國男建築設計事務所(前川國男 1905-1986)に入り、そこで御茶ノ水に建てられた「岸記念体育館(1940)」の設計を担当し、やがて1941年12月に東京帝大の大学院に戻った彼は、在学中にバンコク(Bangkok)の「日泰文化会館」の設計競技に一等入選するなど、若くからその存在を注目されていた。

 彼の戦後の出発を画する作品は1955年に完成した「広島平和会館(広島平和記念資料館)」だ。丹下健三の広島での作品は、原子爆弾によって壊滅的被害を被った広島の町に、死者を祀り平和を祈念して新しい生命を吹き込むための施設であった。この計画はその敷地が広島を流れる太田川と元安川との中洲の先端部にあり、川を隔てて残る「原爆ドーム(1915 設計・ヤン・レッツェル Jan Letzel, 旧・広島県産業奨励館)」の廃墟の姿を焦点に据えた建築群として構成されている。全体は都市計画的配慮をもって立案され、建築と都市とが密接不可分のものであることを人々に深く印象づけた。この作品は1951年のCIAMに計画案として提示され、戦後の日本建築が西欧諸国に紹介される先駆けにもなった。新しい戦後日本の建築を示す作品が、原爆を否定し平和を祈願する施設であったことは実に象徴的な出来事である。

 この同じ年、東京では「法政大学55年館」が建てられる。設計者大江宏は、近代的な建築教育を受けた建築家ではありながら、彼の父親は日光の東照宮をはじめとする伝統的建築の修復工事の大家であり、そうした様式によって作品を設計した建築家としても知られる大江新太郎(1876-1935)である。しかしながら大江宏は法政大学校舎の設計では、父親の作風に見られたリヴァイヴァリズムの作風はいっさい示さず、国際近代様式による大学校舎を設計した。彼の法政大学での仕事は、この後、「58年館」「62年館(現・法政大学市ヶ谷田町校舎)」と基本的に同じ路線を歩み続ける。

 戦後の文化を象徴する新制大学の校舎にこのような新しい建築が出現したことは、それまでのゴシック様式を基調とした戦前からの大学校舎を見慣れていた人々を驚かせるものであった。ファサードに取り付けられていたHosei Universityというネオンサインの文字を、Hotel Universityと読んだ者もいたという。東京に限らず、戦後の日本には無数といっていいほどの大学が新設されていくが、そうした文化の大衆化、新制大学の象徴のひとつがこの「法政大学55年館」だった。

 興味深いのは、「広島平和会館」を設計した丹下健三と、「法政大学校舎」を設計した大江宏は、ともに1938年に東京大学(東京帝国大学)を卒業した同級生だったことだ。丹下と大江という二つの個性は、戦前に建築教育を終え、1955年に両者揃って本格的なデヴューをし、その後も興味ある軌跡を歩み続けていく。現代の日本建築を考える時には、この二人の建築家の作品の変化を対照的な指標として考えることができるのではないか。丹下健三はその後の日本建築を担う主要な作品を次々に生み出していき、現代建築の基本的潮流を形成していく。それに対して、大江宏はその後静かに旋回を遂げ、伝統的な文化と現代文明とを同時に表現すべき建築を模索していくことになるからである。この両者の軌跡の間に、昭和の日本建築の流れはすっぽりと収まってしまうと言ってもいい。

 1964年、東京でオリンピックが開催される。時期を同じくして東京─大阪間には時速200キロ以上のスピードを誇る新幹線が開通し、東京都内には首都高速道路が建設される。オリンピックを機に、日本の都市空間は戦後の復興を終えることになる。オリンピックの建築家は芦原義信(1918-2003)、丹下健三であった。しかしこのうちでは、構造設計家坪井善勝(1907-1990)との共同で、代々木に「国立屋内総合競技場」を設計した丹下の存在がポピュラーになった。吊り屋根の形態を造形の基本に据え、その曲線に日本的な優美さを与えた丹下の技術は世界に彼の名を知らしめることとなる。

 社会が経済成長を続け、建築業の技術力も充実した時期に開催された東京オリンピックは、そこに建築家のヴィジョンを込めるのにもっとも相応しいクライマックスであった。この主役を務めた丹下健三は、戦後の日本建築の歴史を見事に描き切ったのである。以後、彼の大規模な作品は日本以外の諸国を中心とするものに移っていく。20世紀末に丹下は1986年に行われた東京都の新「都庁舎」の設計競技に入賞し、再び国内で広く注目を集める。

 一方、大江宏は1982年に東京に日本的な建築表現を持つ「国立能楽堂」を完成させる。かつてこの二人の同級生の作風の開きの中に、当時、日本で活動する現代建築家が選びとることのできる可能性の幅の大きさと、そして、それだけに建築家が表現の方向を見出すことの難しさも感じられる。

非西欧の建築家たち

 丹下健三や大江宏に限らず、非西欧の建築家たちが切り拓く現代建築の世界は大きい。
 1975年に没したギリシャの都市理論家コンスタンティノス・ドキシアディス(Constantinos Apostolos Doxiadis 1913-1975)は、エキスティクス(Ekistics)という概念を提唱した。それは人間の環境を単なる建築物によってつくられるものではなく、過去・現在・未来にわたる時間の流れの中で生成する住居環境だと考えるものだった。そこでは建築・都市・地域という広がりも、連続的なものとして捉えられる。

 ドキシアディスの考える都市や住居環境は、はっきりとした道路の図式的パターンではなく、時間・空間にまたがるシステムなのである。それは第三世界をも念頭においた時に発想される人間居住環境に対する考え方だと言えよう。

 イスラエル生まれのモシュ・サフディ(Moshe Safdie 1938-)もまた、住居に関する関心によって注目を集めた建築家である。集合住宅「アビタ'67(Habitat 67)」は、1967年に開かれたモントリオール(Montreal)万国博覧会のためのモデル住宅であるが、その後も住宅計画の中に彼は新しい社会に合致した住宅像を求めた。そこにはプレファブ的な工業化された住宅像が認められるが、そうした発想と、カナダに移住したとはいえ、イスラエルという非西欧の新しい国出身の建築家であることは無関係ではないだろう。

 エジプトにはハッサン・ファジー(Hassan Fathy 1900–1989)という建築家が現れる。彼は一時、ドキシアディスのパートナーでもあり、サフディとは対照的に、エジプトの伝統的な形式の建築を再発見することに努めた。伝統的な建築をもとに現代の建築を生み出すことは、言うは易く行うは難い。ファジー自身、多くの建築を次々に設計し、大作を次々に完成させるという道を選ぶべきではないと説いた。しかしながら、こうした禁欲的な態度で、住み手や施工者と一体となって建築をつくる方法は、エジプトの建築家たちや、さらにはアラブ諸国の建築家たちに、深い影響を与えることとなった。

 インドで活動する建築家チャールズ・コレア(Charles Correa 1930-2015)もまた、ドキシアディスの発行している雑誌「エキスティクス」に参加した経験を持つ。彼はル・コルビュジエがチャンディーガルに行ったような強力な西欧的方法ではなく、アジアの中で、そしてインドの中で表現されるべき建築を探求し続けた。インド固有の建築要素であったベランダ(Veranda)を現代建築の中に用いようとする彼の作品は、そうした意識に基づくものだと言えよう。

 コレアは、アジアの建築家たちが協力しながら新しい建築を目指すべきだと提唱したが、そうした交流の中には、香港の建築家タオ・ホー(Tao Ho, 何弢, 1936-) がいる。タオ・ホーは上海生まれで、アメリカに学び、香港で活動するというコスモポリタンで、香港に文化の拠点をつくるべく「香港芸術センター(1977 Hong Kong Arts Centre)」を設計するなど、西欧と東洋の接点である香港という土地を積極的に活動の場としてきた。

 韓国の建築家金壽根(Kim Swoo-geun, 1931-1986)は、日本で建築を学び、母国で旺盛な設計活動を行った。そこには、自国の文化的な表現をいかにして建築表現に与えるかというテーマの追究があったと言えよう。

 こうした建築家は、まだまだ世界に満ちている。今や世界は時間的にも空間的にも急速に均一化しつつある。そうした時代に、非西欧の建築家たちは、近代建築が獲得した普遍的な建築表現に、自分自身の文化の表現をどのよう与えていくかという課題に取り組んでいたのである。


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