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アンのゆりかご [本/雑誌/文筆家]

去年書いた書評です。


初めて憧れた外国はカナダだった。教科書の世界地図を眺めては、いつかカナダに行こうと夢みていた。なぜか。それは「赤毛のアン」を読んだからだ。何度も読み返した。少女向けの翻訳小説を手に取った理由は今となっては不明。また、アンがどんな女性かは記憶になく、脳裏に残るは季節の花が咲くプリンスエドワード島の光景だけだ。訪ねたこともないくせに、当時、頭の中には瑞々しい光景が完璧に再生されていた。その景色を味わうため、何度も「赤毛のアン」を読んだ。旅の車窓から美しい草原が見えると、プリンスエドワード島に似ているなと勝手に思ったくらいだ。子どもだった私は、その本を誰が翻訳したか興味はなく、それが1908年に著された本であることも知らず、つい先日の話のように読み込んでいた。2008年は「赤毛のアン」誕生100周年に当たる。

去年の6月半ば、「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」を書店で見た瞬間、私の記憶は一足飛びに、初めて「赤毛のアン」を読んだ夏の日に遡った。そういえば翻訳家はこんな名前だった気がする。電車の中で本を開き、巻頭の口絵を眺めていたら、村岡花子さんとご家族の写真があった。その下に「この年の10月25日に花子、永眠。カナダを訪ねる夢は、ついに果たせなかった」とある。「ええ!」。翻訳家は、あの光景に一度も身を置くことなく亡くなられていたのだ。そのことだけで、例えようのない衝撃を受けた。ではなぜ、村岡花子は、あんなに活き活きとした、希望に満ちた言葉で、私たちに伝えることができたのだろう。そんな素朴な疑問も、読後はカップの中の角砂糖のようにゆっくりと溶けていく。

村岡花子が「赤毛のアン」の原書「アン・オブ・グリン・ゲイブルス」を手にしたのは39年、46歳の時だ。戦争前夜の不穏な空気の中、帰国するカナダ人時夫人宣教師から「友情の記念」に贈られた本だった。平和な時代に日本の少女に紹介してほしいと託された本を、村岡は戦中、文字通り命がけで翻訳する。運命の本「赤毛のアン」の翻訳には、上梓以上の大きな意味があり、そのミッションが筆を動かせていたのだ。貧しい平民の娘であった花子が、給費生として、華族や良家の子女が学ぶミッションスクールで高等教育を受け、禁じられた恋を貫く情熱的な生き様も、すべて「赤毛のアン」翻訳に焦点を結んでいくように思えた。昭和の生活思想史として読むこともできるだろう。筆者は村岡花子のご令孫である。素晴らしい本をありがとう。私はと言えば、憧れのプリンスエドワード島は未だに、村岡花子さんが翻訳した言葉の中にあり、訪れたこともない。

以下、Amzonのリンクのみ


『チェ・ゲバラの記憶』 [本/雑誌/文筆家]

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十二社の熊野神社のお守り。かなり気に入ってます。

もうずいぶん前になるけど、イタリアのナポリを訪ねたことがあった。10年くらい前かな。その時、目にとまったのは、広場の露店で売られていたポスターだ。どの店もたいてい4種類のポスターを売っていた。一つはブルース・リー、もう一つはディエゴ・マラドーナ(80年代後半にセリエAの強剛だったSSCナポリの英雄だ)、そしてチェ・ゲバラ。最後の一枚は、なんとルパン三世。この4人がナポリのヒーローだったのだろうか。

去年の6月、とある会員誌に書いた書評です。


チェ・ゲバラは、本当にこの地上に存在していたのだろうか。キューバ前国家評議会議長フィデル・カストロは「チェは決して死んだわけではないという結論を引き出したほうがいいのだと思います」と言う(1987年の演説)。これまでにも増して生きているのです、と。

松田修著『複眼の視座』からの孫引きになるのだが、大正4年、南亭箕作元八が著した『西洋史話』には、ペレーの著作に拠る掌編「ナポレオン史伝はギリシヤ神話の改作也」が収められている。著者はナポレオンの功業を、古代ギリシアの太陽伝説と比較し、その一致を逐一証明する。曰く「ナポレオンてふ人物は嘗てこの世に存在せし事なく、たゞこれ詩人の空想に作り上げられたる一個の烏有先生に過ぎざること」(もちろん嘘)。おそらくペレーは、言葉で語られる歴史論証の危うさを説いたのだ。HistoryとStoryは語源が同じだし、フランス語のHistoireはその両者の意を兼ねている。史実とは理性で語られた物語。言葉を重ねると事実は曖昧になり、しかし語り継がれないと忘れ去られてしまう。


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この10年でもっとも悲しいニュース [本/雑誌/文筆家]

so-netのWeblobにアクセス解析の機能が加わって、どんな単語でWeb検索されて記事に辿り着いたのか、キーワードランキングが分かるようになった。で、昨日から急に増えたキーワードが「休刊」「エスクァイア」。それで検索してみるとこんな記事が。
これは衝撃的だ。

「エスクァイア」日本版が休刊へ! さらにコンデナストの新雑誌も......

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孤塁の名人 [本/雑誌/文筆家]

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特に意味はない写真。

ドキュメンタリストの瀬戸山玄さんに勧められた「孤塁の名人」を読む。
人が生きるこの世には、名人と呼ばれる人にしか辿り着けない世界が確かにあるのだろう。ぼくも、この歳からでも真面目に修行すると何かが見えてくるのだろうか。

名人とは天才のか。それとも不断の努力を苦にしない人なのだろうか。それを苦にしない人が天才なのか。モダンデザインの表現は、徹底した構築的な想像力を持続できる強い精神力を持つ人か、それを苦にしない人のものだと思っていた。天才は一気に10のモノを創造する。真摯なモダニストは言葉とイメージを駆使した長い長い思考実験の果てに8程度のものを発見する。実は科学的な法則に則れば、誰でも8くらいには到達できるのだが、ぼくを含め多くの人にはそれを持続できる精神力がない。多くの人は途中、ふと気が抜けてしまったり、面倒くさくなったり、気持が緩んでしまい、思考実験がダメになってしまう。既に“実験”とは言えない状況であることに気がつかない場合もある。その気持の弱さをモダンデザインの神は許さない。稀に人生に一度くらい奇跡的にそれができてしまい、完璧な傑作を残す人もいる。ぼくにとって高橋和己の「邪宗門」は完全な鏡面のように完璧な小説なのだけど、それと同じくらい歪みのない小説をぼくは高橋和己の他の作品で読んだことがない。高橋和己のほかの作品が愚作というわけではなく、(ぼくにとっては)「邪宗門」が完璧すぎるのだ。

続きがあります。津本陽さんってスゴい人だなあ


ナポレオンは存在せしか? [本/雑誌/文筆家]

悲しいことに言葉を使えば使うほど真実を捉えらづらくなる。
科学(理性)を語る言葉と、感情(狂気)を語る言葉に同じモノを使っているからだ。

英語のHistoryとStoryは語源が同じだ。フランス語のHistoireはその両者の意味を兼ねている。そこに、歴史は語られることで意味を持つとする近代西欧の、人間理性に対する過剰なまでの信頼と奢りが感じられるのはぼくだけだろうか。私たちが客観的な科学的記述と信じている歴史は、実は何者かによって語られたものの寄せ集めだ。大正4年、東京帝国大学文科大学教授の南亭箕作元八博士が著した『西洋史話』(東亜堂刊)の中には、「ナポレオン抹殺論(ナポレオン史伝はギリシヤ神話の改作也)」という掌編が収められていたという。ぼくは底本に当たったわけではないので、こんなあやふやな書き方になってしまう。恩師の松田修教授が自著「複眼の視座」の中で、この「ナポレオン抹殺論」について触れている。この論文は『西洋史話』の序文によるとフランス人のペレーが書いた「ナポレオンは存在せしか?」という書物に拠ったことになっている。乱暴な書き方をすると、言葉を重ねると、ナポレオンは存在しないことになるのだ。

以下「複眼の視座」より抜粋して転載(一部改行を変更、傍点は省略)。

擬人化の太陽

 吾人は劈頭に喝破す、従来幾千百の人をして幾千百の言議を費やさしめたる仏国皇帝ナポレオン・ボナパルトは、決して現世に実在せし人にあらず。「ナポレオン」とは一個抽象的な名辞なり。

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