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1. アール・ヌーヴォー [デザイン/建築]



都市の文化としてのアール・ヌーヴォー

 19世紀末のヨーロッパは、文化を都市に表現した時代だった。宮廷に、そして田園に美が見出されるのではなく、美はすべて都市に注ぎ込まれたかのように街路に溢れた。産業革命が工業力による富をもたらし、その富は新興の中産階級の住む都市に流れ込んだのである。そこに、宮廷文化に替わる都市文化が生まれた。

 都市文化の最初の自己表現として、アール・ヌーヴォー(Art Nouveau)はきわめて正直だった。一般にアール・ヌーヴォーの芸術は、うねるような新奇な曲線と平面的な装飾性にその特徴があると言われる。世紀末のヨーロッパを華やかな様式で彩ったアール・ヌーヴォーの建築もその例外ではなかった。建築は空間を含み込むものだから、世紀末的な平面性ということは、ここでは表層のことになる。

 なにゆえアール・ヌーヴォーの様式がひとときにヨーロッパに広がり、ほとんどあらゆるジャンルの芸術に飛び火したのか。そしてなぜ短命のうちに燃え尽きて消えてしまったのか。この秘密を解く鍵は、アール・ヌーヴォーが持っていた二つの特徴、平面性と装飾性にあると考えられる。

 アール・ヌーヴォーの示す平面性と装飾性には、その芸術の出自を問わぬ一種の匿名性が漂っている。その装飾がそれまでの歴史的なモティーフから離れた、一種抽象性を備えたものであったことも、匿名性のひとつと見ていい。

 そうした匿名性は、身分に縛られた貴族社会の宮廷文化が、一代で富を築いた人々や、才能によって自らを認めさせる芸術家たちの手になる都市文化に移っていった時、まさしく都市の表現として求められたものだった。

 19世紀から20世紀に至る間に、都市は膨張し続けていた。例えばパリ(Paris)では、フランス革命で人口が10万人ほど減少していたものが、1801年には人口55万人、1851年にはそれが倍増して105万人にまで達している。この人口の上昇は19世紀後半にはさらに加速され、1900年には人口271万人に至る。都市が人口を吸収するのは理由がある。人々が農村に住むことをやめて都市に集まるのは、社会構造が都市的になったからだ。それは産業革命がもたらした社会構造の変化であったと言っていい。

 産業革命の先進地、英国のリヴァプール(Liverpool)の場合、その変化はパリよりも早く、ずっと激しかった。産業革命が始まる1774年の時点では、リヴァプールの人口は3万4407人だったが、港湾都市としてのリヴァプールの重要性が飛躍的に高まりだしてから人口は急増し、12年後の1786年には4万1600人、1790年には5万5832人、1801年には7万7650人となった。しかもこの町の港には常時平均約6000人もの水夫たちが停泊中の船舶に起居していたと言われ、現在ではリヴァプールの一部となっている郊外にも5000人近い人口が暮らしていた。こうした人々の数を考慮するならば、1801年、既にリヴァプールの都市人口はロンドン(London)に次いで英国第2位の規模になっていた。

 多くの都市で都市改造が行われ、施設が新たにつくられ、巨大化していった。郊外には住宅が建ち並び、工場やオフィスがつくられ、都市と都市を鉄道が結びつけ、外国との間に航路が賑わいを見せ、そのための駅舎や港湾や倉庫が生まれた。つまり、私たちの住む現代都市の原型がはっきりと姿を現したのである。

 都市というものが、産業革命の波を背後に背負いながらも急成長していく時、そこはさまざまな夢と思惑を抱いた人々の集まり住む場所となる。そうしたさまざまな思惑が交錯する場である以上、都市にはその文化を花開かせる場、盛り場が出現する。  盛り場こそ、都市の中の都市と言っていい。多数の人々が集まり、複数の目的がそこで果たされようとする場所が盛り場なのだから、そこにこそ都市はもっとも都市らしさを発揮する。農村や小さな集落に盛り場がないわけではないが、そうした盛り場は特別の市の立つ日や、お祭りの縁日などの時に生じる場合が多い。つまり、それは一種の祝祭を契機として生じる都市性の産物なのである。盛り場の賑わいの中には、多かれ少なかれ、日常の生活を離れた、非日常的な祝祭の気分が漂っていた。社会全体が身分制度に縛られ、生活が地縁・血縁のしがらみに束縛されていた時代には、盛り場の持つこうした祝祭的な性格は、人々の生活に変化を与え、息抜きを与えてくれるものであった。そうした盛り場の賑わいの中で、人は誰とも知れず、また誰をも知らぬ身軽さで、束の間の自由を享受することができたのである。

 そこから、盛り場の持つ第二の性格、すなわち匿名性という特徴が現れてくる。盛り場の中では人は、群衆の一人として、日常の束縛からの解放を味わうことができる。まさに盛り場は、盛り場であるがゆえに人が集まり、人が集まる場であるからこそ、さらに人が集まるようになるのである。祝祭的性格と匿名性とが、さまざまのタイプの盛り場に共通して認められる吸引力の源泉なのである。

新しい精神、新しい都市

 祝祭的生活が装飾に結びつき、匿名性の平面性に結びつけていたのが、世紀末の都市の文化の造形的表現、すなわちアール・ヌーヴォーだった。

 建築の表現は、うねりながら表面を伝わり、奥へ奥へ広がっていく装飾に埋め尽くされるものとなっていく。街路に面した建物のファサードもまた、格式を示す表現から、一枚のカンバスのような面に変わっていく。パリのアール・ヌーヴォー建築は、そうしたファサードでまず人を惹きつけた。

 しかしながら建築に現れる表面性は、個性的ではあるが、同時に人の視線を表面の裏側、すなわり造形の真の出自を示す本質にまでは行き届かせることなく、あくまでも表面に押しとどめる頑なさも秘めていた。それがアール・ヌーヴォーの持つ平面性と匿名性であり、そうした空間のつくり方は、その平面性が実は凹みながら奥に広がる表面性というものであることを教えてくれる。アール・ヌーヴォーをめぐる名称の多様さを調べてみても、そこには造形の純粋に外面的な特徴を捉えた呼び名が数多く見られるだけで、その真の内奥を教えてくれるものは驚くほど少ない。それこそが、逆に世紀末の謎めいた造形の意識を解き明かす鍵である。

アール・ヌーヴォーのさまざまな名称の一部 名称/国・地域/由来

Art Nouveau(新しい芸術)/フランス/美術商サミュエル・ビング(Samuel Bing 1838-1905)の店「Maison de l'Art Nouveau」の店名

Yachting Style(ヨット遊び様式)/フランス/美術評論家エドモン・ド・ゴンクール(Edmond de Goncourt 1822-1896)による命名

Style Guimard(ギマール様式)/フランス/エクトール・ギマール(Hector Guimard 1867-1942)

Style Métro(メトロ様式)/フランス/ギマールが1900年にデザインしたパリ地下鉄駅入口、駅舎

Style Nouille(うどん様式)/フランス/形態

Morris Style(モリス様式)/英国/ウィリアム・モリス(William Morris 1834-1896)

Glasgow Style(グラスゴー様式)/スコットランド/グラスゴー派(Glasgow School)

Paling Stijl(うなぎ様式)/ベルギー/形態

La Libre Esthétique(自由な美学)/ベルギー/1894年のグループ展を行った芸術家グループ名

Jugendstil(青春様式、ユーゲントシュティール)/ドイツ/1896年刊行の雑誌「Die Jugend」

Veldesche(ヴェルデ風)/ドイツ/工芸作家ヘンリィ・ヴァン・デ・ヴェルデ(Henry van de Velde 1863-1957)

Bandwurmstil(サナダムシ様式)/ドイツ/形態

Wellenstil(波の様式)/ドイツ/形態

Stile floreale(花の様式)/イタリア/形態

Stile Liberty (リバティスタイル、スティレ・リベルティ)/イタリア/ロンドンの百貨店「リバティ商会(Liberty)」

Sezession(分離派)/オーストリア/1897年ウィーンで画家グスタフ・クリムト(Gustav Klimt 1862-1918)を中心に結成された芸術家グループ

Modernismo, Modernismo catalán(近代主義)/スペイン/

Tiffany style(ティファニースタイル)/アメリカ/ニューヨークの宝飾店「Tiffany」


 同じように、アール・ヌーヴォーの示す装飾は、抽象的でありながら、しなやかな生命力に貫かれていて、やはり謎めいている。そこに優雅と生命力が同時に存在する様は、文化の若さの横溢によるものなのか、それとも文化の長い洗練の果てのゴールの出現を示すものなのかと、いぶかしく思う気持ちさえ誘う。

 おそらく、その答えはひとつに収斂していかないはずだ。アール・ヌーヴォーは文字通りにとれば「新しい芸術」であるが、その裏には、深く長いヨーロッパ文化が横たわっている。素知らぬ顔で、過去を奥に押しやったまま、表面に謎めいた優雅な微笑のように装飾をまとわせ、その装飾の生命力を十二分に繰り広げさせたのがアール・ヌーヴォーであってみれば、そこに若さと伝統とか、不思議に混在していても驚くにはあたらない。

 だが、こうした精神は、そのまま現代の空間の表現につながるとは言えない。一般には、近代の空間は精神や夢の産物であるよりも、技術と材料の産物と言われているからだ。本当にそのようなことがいえるのか。そして、現代の空間の根源がどのように織り合わされてできているのか。それを検討してみなければならない。

新しい素材 鉄とガラスとコンクリート

 近代建築を支えたのは新しい材料の出現で、それは鉄とガラスとコンクリートであると言われる。近代建築のアンソロジー「現代建築の黎明 1851-1919」を編んだケネス・クランプトン(Kenneth Brian Frampton 1930-)も、その第1章を「ガラス、鉄、鋼、そしてコンクリート 1775-1915」にあてている。

 新しい材料が出現すれば、新しい建築が生まれるかどうかは一概には言えないし、真に新しい材料というものが存在するのかについても疑問は残る。それでも、近代建築と新しい材料の間には、すでにはっきりとした神話ができあがってしまっている。

 近代建築が確固とした新しい建築であることはどうも疑いようがなく、その事実に気づいた建築家や歴史家たちがその源泉を求めて時代の決定要因を探し、結局、材料という要素が建築に大きな作用を及ぼしたにちがいないことに気づいたことが、〈新しい材料が生む近代建築〉というスローガンとして定着した。だが、新しい材料と言っても、ガラスや鉄やコンクリートはそれぞれ古い歴史を持っている。この三種の材料はいずれも古代から用いられていたし、古代ローマ建築は天然コンクリート造によってコロッセアムなどの巨大構造物を生み出し、中世の大聖堂は広い窓面積を色鮮やかなステンドグラスで埋め尽くしていた。

 したがって、近代建築を生み出す力と評価された鉄もガラスもコンクリートも、それだけを取り出して考えれば、新しい材料ではない。それでは何が新しい材料として意味あるものにしているのか。それは工業製品としてこうした材料をつくりだす力だ。近代建築は新しい材料によって生み出されたというが、新い材料は物質そのものが新しいという意味ではなく、生産技術が工業化された基盤の上に成立した建築ということである。これが近代建築の神話として言い換えられたにすぎない。

 そもそも、新しい材料が用いられたのは、建築物よりも建造物のためであった。19世紀には、美的・芸術的配慮の下でつくられる建築物と、物理的な構造物である建造物を区別する考え方が強かった。鋳鉄構造が最初に用いられるのは橋梁の分野であり、1777年から79年にかけて建設されたエイブラハム・ダービー(Abraham Darby III 1750-1789)設計の「コールブルックデール橋(Coalbrookdale Bridge)」がその栄誉をになることになる。コールブルックデール橋は英国の橋梁であり、この後も英国が鋳鉄構造の先駆であり続ける。1826年にはテルフォード(Thomas Telford 1757-1834)の設計した総長176メートルの堂々たる「メナイ橋(Menai Suspension Bridge)」が完成し、1869年にはイザムバード・キングダム・ブルネル(Isambard Kingdom Brunel 1806-1859)によって「クリフトン橋(Clifton Suspension Bridge)」が完成する。ブルネルは1859年にはロンドンに「ロイアル・アルバート橋(Royal Albert Bridge)」を完成している。その他の諸国では、1861年にアルフォンス・ウードリ(Alphonse Oudry 1819-1869)設計の可動橋「ナポレオンⅢ世橋(ナシオナル橋 Pont National)」がフランスに。1883年にはジョン・ローブリング(John Augustus Roebling 1806-1869)設計の「ブルックリン橋(Brooklyn Bridge)」がニューヨーク(New York City)にそれぞれつくられる。鉄筋コンクリート橋もこのころ実用化され、1894年にエヌビック(Francois Hennebique 1842-1921)設計の、総長わずか2.4メートルの橋がスイスに竣工している。こうした橋梁技術は独自の領域を確実に形成していった。しかしながらそれは、建築とはあまりに掛け離れた分野の出来事だったと言えるかもしれない。

 新しい材料、技術がもう少し具体的な建築の姿をとったのは、ガラス張りの屋根架構の分野であった。18世紀からすでにガラス張りの天窓は多くの建物に用いられていたし、鉄骨の梁を建築物に採用する例も多かった。1829年につくられたパリの「パレ・ロワイヤル(Palais-Royal)」のギャラリーには、ピエール=フランソワ=レオナール・フォンテーヌ(Pierre-François-Léonard Fontaine 1762–1853)の設計による鉄骨構造の屋根が全面的に架けられていたし、「英国国会議事堂」でさえも、外観は堂々たる末期ゴシック様式でありながら屋根はほぼ全面的に鉄骨造であった。

 鉄とガラスを組み合わせて建物とする例は温室に見出される。ジョセフ・パクストン卿(Sir Johseph Paxton 1803-1865)は1840年にチャッツワース(Chatsworth)にそのような温室をつくり、ターナー(Richard Turner 1798–1881)は「王立植物園キューガーデン(Kew Gardens)」に「棕櫚園(The Palm House)」を1847年に完成している。このような伝統が、1851年のロンドン万国博覧会会場である「水晶宮(The Crystal Palace)」を生んだのであった。

 1865年から67年にかけて、ジュゼッペ・メンゴーニ(Giuseppe Mengoni 1829-1877)がミラノ(Milano)にガラス張りのアーケード「ガレリア・ヴィットリオ・エマヌエルⅡ世(Galleria Vittorio Emanuele II)」をつくる。ナポリ(Napoli)にも1887年から90年にかけて「ガレリア・ウンベルトⅠ世(Galleria Umberto I)」が、ロッコ(Emanuele Rocco 1811-1892)によってつくられる。1876年にはルイ=シャルル・ボワロー(Louis-Charles Boileau 1837-1914)がパリの「ボンマルシェ百貨店(Le Bon Marché)」にガラスの大ドームを挿入する。そして1882年から83年には、ポール・セディユ(Paul Sédille 1836 -1900)によってパリの「オ・プランタン百貨店(Mgasins du Printemps)」にも同じようなガラスドームが導入される。これらは工学技術的に見ても大偉業であるが、むしろそうした技術的苦心の跡は注意深く隠されている。表面に現れるのは見事な装飾であり、きらびやかなステンドグラスである。

 この種の建物は建築とは認められず、たかだか建造物であると見なされることが多かったが、こうした技術が独自の領域を形成しつつあることは事実であった。1869年に完成したロンドンの「セントパンクラス駅(Midland Grand Hotel at St Pancras Station)」は、駅舎とホテルはスコット卿(Sir George Gilbert Scott 1811–1878)設計の威風あたりを払うゴシック様式の建築であったが、ホームの覆屋はバーロー(William Henry Barlow 1812-1902) 設計の鉄とガラスの建造物であり、そこには73メートルの径間を持つ世界最大の室内空間が用意されていた。1898年のパリ万国博覧会に建設されたデュテール(Charles Louis Ferdinand Dutert 1845-1906)とコンタマン(Victor Contamin 840–1893) 設計の「機械館(La Galerie des machines)」や、ギュスターヴ・エッフェル(Alexandre Gustave Eiffel 1832-1923)設計の「エッフェル塔(La tour Eiffel)」もこの系譜に属するものであるが、こうした構造技術の精華でさえも、当時はまだ建造物の域を出なかったのである。

 倉庫、ドックなどにも鉄材は大々的に用いられ、また伝統的な外観を示す教会建築でありながら、内部はほとんど鉄骨構造というような例も数多くつくられたが、それらは注意深く一般の「建築物」から隠されていた。



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