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2. ロマンティック・ナショナリズム(ナショナル・ロマンティシズム) [デザイン/建築]



遅れたものが先頭に立つ

 建築において、19世紀ほど様式的思考が支配的であった時代はほかにない。あらゆる時代はその時代の様式を持っているといえばいえるが、19世紀の場合には、自らの生きる時代固有の様式ではなく、過去の様式を設計の基本に据え、ある建築家はゴシックによって、そして他の建築家は古典主義によって建築を発想したのであった。

ゴシック様式
中世ヨーロッパの建築様式。12世紀から14世紀頃までの様式。円弧を組み合わせた尖塔アーチに特長がある。

古典主義
建築で古典主義という場合は、とても広い意味に使われる例が多く、古代ギリシャやローマの建築に始まり、ルネサンス建築に再び現れてくる様式全体を指す。いちばんの特長はドリス式、イオニア式などと呼ばれる柱を用いて構成することで、こうした柱の形式をオーダーと呼んでいる。

ゴシック・リヴァイヴァル
19世紀の英国、フランス、アメリカなどを中心に起こった建築の動き。中世のゴシック様式を使って建築をつくっていく傾向。英国の国会議事堂(Palace of Westminster)などがその代表作で、19世紀に中世の様式を復興しようとする流行である。英国の建築家オーガスタス・ウェルビー・ノースモア・ピュージン(Augustus Welby Northmore Pugin 1812 -1852)など。

 しかし同時に、19世紀は事実の世紀であったと言われている。観念論による一つの価値観の指摘は、事実による裏付けがない限り、印象の薄いものであった。ヨーロッパの列強が海外に植民地を次々に獲得していった19世紀は、実績こそすべての評価基準となった時代であり、建築に対しても事実による裏付け、歴史的実証性を要求した。建築家たちは、自分たちの設計図に描かれた建築細部がいかに歴史的由縁に満ちており、正確なものであるかを即座に説明できなければならなかった。

 建築の様式論は、観念的価値観の主張として論ぜられたのではなく、一見どれほど高踏的な論議と思われようとも、社会の現実に対抗するために歴史の真実、歴史上の真実を対置して見せるための論理であった。建築家の才能とは、現実のあらゆる要求に対して、正統的な様式的知識を用いて直ちに解決策をつくりあげて見せることだった。そこで要求される知識は、どちらかといえば様式的細部に対する知識、建築を構成する「部分」の正確さであり、そうした「様式部品」を組み合わせてどのような構成物をつくりあげるかは建築家の裁量に任されていた。建築家たちはそれ故に、かなり正確に過去の様式言語を駆使しながら、全体としては古今未曾有の建築物をつくり上がることになったのである。なにゆえこのような事態が生じてきたのか。

 19世紀の様式的多様さは、全体として考えるなら様式の地位の相対的下落、様式の無力化の進行を示すものであった。唯一絶対の時代様式が存在しないということは、どのような様式を用いてもその価値は相対的なものでしかないということだ。あらゆる様式は常に自己の様式的正当性を主張し続けなければならない。その時に、それぞれの様式の正当性の保証をなしたものこそ、細部の歴史的正しさだった。正しい歴史的細部を用いる限りにおいては、建築家は自らの正当性を歴史の名において主張することができる。

 つまり19世紀には、様式は建築の正当性を保証するための裏書き、いわば建築の市場的価値の保証書のような役割を持つことになっていた。様式的正確さはその建築の商品価値を高め流通性を保証する、という考え方が、多くの建築家の胸のうちを去来していた。

 しかしながら、世紀末の到来とともに、そうした「客観的」様式に対する懐疑の念が建築家たちの心の中にきざし始める。アール・ヌーヴォーの新様式の模索はそこに生じたといっていい。この波はヨーロッパ諸国に広がっていくが、それは決して単なる影響関係だけではない、文化の自覚ともいうべき感情を呼び覚ましていた。
 20世紀初頭にヨーロッパの各地、それも英仏伊の中心都市を外れた各地に現れるさまざまな個性的建築は、それまでの建築の流れに独特な刺激を与えるものが多かった。スペイン・バルセロナ(Barcelona)にアントニ・ガウディ(Antoni Plàcid Guillem Gaudí 1852-1926)、スコットランドのグラスゴー(Glasgow)にはチャールズ・レニー・マッキントッシュ(Charles Rennie Mackintosh 1868-1928)、オランダにはアムステルダム派(Amsterdamse School)と呼ばれる建築が現れ、フィンランドにはエリエル・サーリネン(Gottlieb Eliel Saarinen 1873-1950)が現れる。

 彼らはそれぞれに異なった作風を残した建築家たちであったが、作風の違いを超えて、何か共通するところが感じられないだろうか。その共通点とは、それぞれの建築家が活動する祖国の文化的伝統を、作品の基盤において建築を設計しているという点である。
 ガウディはゴシック様式を基盤にした。マッキントッシュはスコットランドの造形やケルトの装飾をもとに、アール・ヌーヴォー的造形を生んだ。アムステルダム派の建築家たちは、レンガ造の土地の伝統を精緻に発展させた。それは、よって立つ伝統は違っていても、自分たちの文化の再認識、自分たちの文化からの出発を心に秘めての活動だったと考えられないだろうか。

 歴史的様式を復興するリヴァイヴァリズムの建築が、19世紀の末になって徐々に一種の専門知識のトレードマークのような観を呈してきた時に、むしろヨーロッパ周辺諸国では、自国の文化的伝統を再認識することによって、自国の近代化の意識を呼び覚まそうとする機運が生じた。一般に、こうした動きをロマンティック・ナショナリズムと呼んでいる。
 ロマンティック・ナショナリズムとは、近代的な意識のもとに先進諸外国の理念を積極的に採り入れて、自分たちの建築の基盤を固め、しかもそこに自分の伝統を生かした造形を生もうとする動きと定義される。その点で、ロマンティック・ナショナリズムは、単に自らの過去を懐古し、振り返るだけのものではない。この言葉は北欧の今世紀初頭の建築に対してしばしば用いられるけれど、実は近代化を迎えようとする国では、多かれ少なかれ同じ意識が台頭していたのである。

 一足先に近代化を進めつつある国に対して、併呑されぬように気を張り詰めながら、自らも近代化を模索する時には、何よりも自らの文化の出自を意識し、それを拠りどころとしたくなる。ロマンティック・ナショナリズムとは、まさにそうした動きであった。
 一足遅れた諸国、そこには日本も含まれると考えていい。そうした諸国は、遅れて出発したがゆえに、かえって抜きんでた建築の表現に到達する場合もあった。

アントニ・ガウディ

 ガウディは1852年6月25日、スペインのカタルーニャ地方(Catalunya)に生まれた。産業革命の先進諸国は、その前年にロンドンで万国博覧会を開催していた。カタルーニャはスペインにあっては唯一、工業化に向かいつつある地方であり、ラナシェンサ(Renaixença)と呼ばれる近代化運動に進みつつあった。とはいえ、ガウディの生まれたこのカタルーニャは、いわゆるヨーロッパの中心ではなかった。フランスから見ればピレネー山脈の彼方であり、イスラム文化の影が色濃いヨーロッパの周縁部が、ガウディの母胎となった土地である。もしもカタルーニャが正確にヨーロッパ文化と一致する背景を持つなら、ガウディは当時のフランスや英国の建築家と同種の問題に着目して、そこに個性的な解決を与えた建築家となったことであろう。その場合においても、ガウディは十分に独創的であり続けたであろうが、それは現在私たちの目にするガウディ像とは異なったものになったはずである。そこに、彼の芸術に対するカタルーニャの影響を探ることができるだろう。

 学生時代のガウディの建築図面を見ると、彼がフランスの国立美術学校エコール・デ・ボザール(École nationale supérieure des Beaux-Arts, ENSBA)に代表される、図面技法の習得に腐心していたことが窺えるし、同時に、彼が全ヨーロッパ的なゴシック・リヴァイヴァルの波にも影響を受けていたことが見てとれる。その精緻な図面は、精緻な細部構成に対する彼の愛情を感じさせるものだ。ガウディを英国やフランスのゴシック主義者たち、ジョン・ラスキン(John Ruskin 1819-1900)やヴィオレ・ル・ディク(Eugène Emmanuel Viollet-le-Duc 1814-1879)に近づけて評価する考えは、このような初期の図面を見るなら、一理あると納得できる。しかし、彼の後の作品はあくまでも「ガウディそのもの」であり、彼独得の原理を示しているように思われる。その点を考えるためには、ここで彼の周囲の芸術運動を知る必要があるだろう。

 19世紀末にヨーロッパ中を渦巻いたアール・ヌーヴォーは、カタルーニャにおいてはモデルニスモというムーブメントに類似性が認められ、ガウディもモデルニスモの作家の代表の一人と考えられてきた。モデルニスモの動きがガウディにとって無視できぬものだったことは事実だろうし、モデルニスモ自体がガウディ抜きには考えられないものであったことも認めなければならない。一方でガウディ自身、モデルニスモ運動の枠内に収まりきってしまう存在でないことも、また、事実なのである。モデルニスモをカタルーニャ版アール・ヌーヴォーと考えるなら、アール・ヌーヴォー運動の中に常に見出されるゴシック・リヴァイヴァルからの解放という要素が、ガウディにあってはあまりに特殊な形をとっているからだ。

 ガウディをモデルニスモの建築家としてのみ捉えようとするなら、それは真にガウディ的な要素を切り捨ててしまうことになる。それでは逆に、ガウディはゴシック・リヴァイヴァルの中に座を占めることになるのか。ところがここにおいても、ガウディは特殊である。確かにガウディはゴシック・リヴァイヴァルの要素はなくはないが、彼はモデルニスモ運動の中に収まりきらないのと同様に、いやそれ以上に、ゴシック・リヴァイヴァルの枠内にも収まりきらない。
 1883年、彼はゴシック・リヴァイヴァルの建築として立案された「サグラダ・ファミリア教会(Sagrada Família)」の工事を受け継ぎ、終生この教会と関わることになる。彼は1884~91年に地下聖堂をつくり、1891年には南側の袖廊(教会の祭壇に向かって左右にのびる翼部)の壁面に着手した。また、1893年には、彼のパトロンであったグエル伯爵(Eusebi Güell i Bacigalupi, 1st Count of Güell, 1846-1918)の経営する工場の従業員のための町「コロニア・グエル(Colonia Güell)」に建つ教会の建設に着手する。ここでも工事は未完に終るが、ゴシック構造を用いながら、さらに懸垂線(カテナリー catenary)を用いて構想された図面を遺している点などに、単なるゴシック・リヴァイヴァルを抜け出た新しい意識を見ることができる。

 「コロニア・グエル」は一種のユートピア建設であったが、1900年に起工された「グエル公園(Parc Güell)」もまた、本来は公園を取り巻いて住宅地が形成されるはずの、田園郊外住宅地づくりの一環であった。この工事も結局は中途で未完のまま終ってしまう。
 一般にガウディの存在は、その特異な形態のあり方によって印象づけられるが、彼の建築観の根底には新しい建築のヴィジョンとともに、新しい社会に対するヴィジョンがあった。それは一種のユートピア思想であるが、そのユートピア思想を成立させたものは、スペインの工業都市バルセロナを覆っていた近代化への足音に対する、文化の自覚ではなかったかと思われるのである。

伝統と近代

 ガウディに限らず、近代への独自の先駆をなした建築家たちの中には、自分たちの建築を成立させる風土・文化的伝統を強く意識した人たちが多い。しかしながら、そうした建築家たちは、互いに孤高を保って歴史の中に存在し続けているようで、大きな共通点をなかなか見出し難い。ここでは、ロマンティック・ナショナリズムという光を彼らの上に投げかけることで、ひとつの文化の脈絡を考えていきたい。

 例えば、オランダにはヘンドリク・ペトルス・ベルラーヘ(Hendrik Petrus Berlage 1856-1934)という建築家がいる。彼は1897年に起工された「アムステルダムの株式取引所(Amsterdamse effectenbeurs)」で知られるが、そこで彼はロマネスク様式のずんぐりとしたプロポーションを基本としながらも、過去の様式の再利用ではなく、自由な造形によって取引所という実用的な機能を持つ建築をまとめげている。しかもそこに、石とレンガという古くからの建築材料を全面的に用い、さらに鉄骨構造によって取引所ホールの屋根を架けるなど、自由な処理を行っている。
 ベルラーヘを基点として、彼の材料の扱い方を発展させる方向からアムステルダム派と呼ばれる建築家たちがあらわれる。ピート・クラーメル(Piet Kramer 1881-1961)、ミハエル・デ・クレルク(Michel de Klerk 1884-1923)を中心とするアムステルダム派の若手建築家たちは、公営住宅にオランダ伝統のレンガを用い、表現主義的な造形と経験主義的な手法とを併せ用いた。彼らはベルラーへを超える意気込みで反発を見せることもあったが、大きな流れの中で見る時、そこにはオランダの文化的伝統の延長線上に近代建築を築いていこうとする共通性が感じられる。一方、ベルラーヘの伝統からは、デ・スティル(De Stijl)と呼ばれる幾何学的構成の建築を生むグループも生まれてくるが、その根底にはベルラーヘのような存在があったことも興味深い。

 グラスゴー派(Glasgow School)と呼ばれる特異な造形を示す作家たちの中心として、近代建築に対する独自の先駆者となったマッキントッシュも、広義のロマンティック・ナショナリズムの作家と見ていいかもしれない。
 彼の建築家としての出発点は、母校である「グラスゴー美術学校(Glasgow School of Art)」の新校舎建設のためのコンペティションに入賞することによって画される。同時に彼は家具やインテリアの作品に自己のスタイルを広く展開している。

 彼の作風は夫人となるマーガレット・マクドナルド(Margaret Macdonald Mackintosh 1864-1933)の画風に見られる曲線的抽象性を出発点にしているが、その曲線はしなやかに引き伸ばされて、緊張感をはらんだ直線になっていく。グラスゴー郊外に建つウィンディヒル(Windyhill 1889)やヒルハウス(Hill House 1902-3)などの住宅には、そうした曲線と直線の境をまぎらす精妙なデザインが見られる。1901年に彼はドイツの出版社(Zeitschrift für Innendekoration)が行った芸術愛好家の住まいのためのコンペティション(House for an Art Lover 〈Haus eines Kunstfreundes〉competition)に2位入賞し、これによってヨーロッパでの声価を高め、影響力を持つまでにいたる。
 しかし、この頃、彼はグラスゴーを飛び出し、ロンドンで活動をスタートさせるも、病に倒れて真の円熟期を迎えることなく没した。彼の才能が天才的であったことは疑いないが、その出発点にはやはり自己の、スコットランドの文化的伝統に対する自覚があったように思われる。

 同じ頃、フィンランドにはエリエル・サーリネンが登場する。1900年パリ万博の「フィンランド・パヴィリオン」は、サーリネン、ヘルマン・ゲゼリウス(Herman Ernst Henrik Gesellius 1874-1916)、アルマス・リンドグレン(Armas Eliel Lindgren 1874-1929)ら、ヘルシンキ工科大学同窓生の手になるナショナル・ロマンティシズムのモニュメントである。砦を思わせる建築の内部には、フィンランドの民族画家アクセリ・ガッレン=カッレラ(Akseli Gallen-Kallela 1865-1931)の絵画が描かれいた。ガッレン=カッレラは、もともとは写実主義の画家だったが、民族主義文化運動に身を投じて以後、ロマンティックな力強いタッチで「カレワラ (Kalevala) 」を主題とした絵をつぎつぎに描いた。民間説話からまとめられたフィンランドの民族叙事詩「カレワラ」は、当時のフィンランド人に大きな衝撃を与え、1917年のロシア帝国からの独立の文化的な牽引力にもなったと言われている。サーリネンもこうした民族主義運動の影響を強く受けていた。
 1904年に行われた「ヘルシンキ駅(Helsingin päärautatieasema, Helsinki Central railway station)」の設計コンペティションに入選したのもエリエル・サーリネンだった。彼は、自国の伝統的様式を再発見するラーシュ・ソンク(Lars Eliel Sonck 1870-1956)らの、ロマンティック・ナショナリズムの作風によってこの駅舎コンペに応募する。しかし、その案に異論が唱えられ、実際に完成したものは、様式復興の手法を脱却した方向を示す建築であったことも興味深い。後に彼はアメリカの高層建築にも一石を投じる設計案、1922年の「シカゴ・トリビューン本社屋(Tribune Tower)」のデザインコンペ応募案でも知られることになる。

 ひるがえって、わが国の建築家伊東忠太(1867-1954)も、建築表現の独自性を求めた存在として、広い文脈の中で捉えられるべき存在といえよう。彼は法隆寺建築の研究を行い、それを広く東洋建築の流れに位置づけ、さらにはギリシャ建築と結びつける視点をも示した。また、それまで造家学と名付けられていた建築学の分野を、現在の呼称に変更させたのも彼の力である。1909年の「建築雑誌」に掲載された論文「建築進化の原則より見たる我邦建築の進化」で「建築進化論」を展開。明治期における近代日本の建築界を、文明開化以前の純粋な建築の終焉、「過渡の時代即ち暗黒時代」として、日本の建築が欧化主義に陥ることを批判し、建築のスタイルは「自ら秩序的に進化して出来た」として必然的に進化主義をとるべきであると提唱した。

 建築家としての彼の作品には、京都の「平安神宮(1895 共同設計・木子清敬・佐々木岩次郎)」、東京築地の「本願寺(1934)」、両国の「震災祈念堂(1930 現・東京都慰霊堂本堂)」などがある。西欧の建築を学習し模倣し、一種の工学技師として発展させようとしてきた日本の建築界において、伊東忠太が示したヴィジョンは造形の自律的な発展を目指そうとするものがあった。
 近代建築が形態の上で、白い箱と評されるイメージに収斂していく前に、さまざまな模索がなされてきたこと、そしてそこにきわめて存在感のある建築が生み出されてきたことの意味を、私たちは忘れてはならない。



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