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3. 「新世界」の建築 [デザイン/建築]


シカゴ派

 1776年に独立宣言を発したアメリカ合衆国は、ヨーロッパの直系の子孫でありながら、文字通りの新世界を築くべく運命づけられていた。
 1804年にシカゴ川がミシガン湖に注ぐところに、ティアボーン砦がつくられたが、これがシカゴの町に発展していった。シカゴ(Chicago)はアメリカ大陸中心部の大草原と北部の森林を後背地にした農業や林業の中心地として発展し、後に五大湖に面する交通の利便を活かした商工業都市となっていく。

 ところが1871年、シカゴには大火が起き、それまで築き上げられた都市は未曾有の被害を被る。被害額は約1億9000万ドルと言われ、約10万人の市民の住居が奪われた。被災した中心部の再建の過程で、シカゴには新しいタイプのビルが誕生する。それが一般にシカゴ派(Chicago school)と言われる建築だった。シカゴ派の建築は基本的にオフィスビルの建築として発達した。オフィスこそ、20世紀のもっとも中心的な建築であるといっていい。もともとオフィスという言葉は、大きな住宅の家事・家政関係の仕事をするための諸室(台所や食品貯蔵庫、家政執務室など)を呼ぶものであった。また、都市全体の事務機構を司る施設、市庁舎やホールなども事務所だといえるかもしれない。美術館として有名なフィレンツエ(Firenze)の「ウフィツィ宮(Galleria degli Uffizi)」は、イタリア語でオフィスのことであり、実際この建物は、コジモ1世によってフィレンツエの行政事務を行う建物として完成されたものである。

 ただ、現在一般に呼ばれているオフィスというのは、一社あるいは数社が事務を行うための建物のことで、これが近代の産物であることは間違いない。近代の都市の理念を高らかに謳いあげた宣言として、建築と都市の歴史に名高い「アテネ憲章」(1933 The Athens Charter)は、都市の要素を住居、余暇、勤労、交通、そして歴史的遺産に分けて分析しているが、その中で勤労の要素として事務所について次のように述べている。
 「工業の飛躍は、必然的に業務や、私的管理事務や商業を派生せしめる。この分野では真剣に調べたり見通しを立てたりしたことはまったく何もない。売ったり買ったりしなければならず、工場や工房と、供給者と顧客との間の橋渡しをしなければならぬ。この取引きには、事務所が必要である」(吉阪隆正訳)

 こうして生じるオフィス、つまり私企業のためのオフィスビルは近代工業の成立とともに出現してくる。各種の建物が成立してくる過程を研究したニコラウス・ペヴズナー卿(Sir 1902-1983)は、近代的なオフィスビルの持続的な歴史の始まりを19世紀初頭のロンドンに求め、その嚆矢を1819年の「カウンティ火災保険会社(County Fire Office)」だとしている。この建物は1階にアーケードを持つ18世紀風の古典主義の建築であった。この後も、オフィスビルには保険会社のものが多く、「ウェストミンスター損害保険(1832 Westminster Insurance Office)」、「サン火災保険(1841-42 Sun Fire Office)」が続くのだと、ペヴズナーは述べる。
 そして初期のオフィスビルの傑作と言われるリヴァプールの「オリエル・チェンバーズ(1865 Oriel Chambers)」が、ピーター・エリス(Peter Ellis 1805–1884)によってつくられる。このビルはオリエル=出窓という名が示すように。鉄骨構造を躯体に用いて、ビル全体を出窓で構成したものだった。

 こうして現れてきたオフィスビルを本格的に発展させるのがシカゴなのである。カウディを生んだバルセロナ、マッキントッシュを生んだグラスゴーがそうであったように、シカゴもまた、国家の商工業の中心地として拡大しつつある都市だった。

 シカゴにおける鉄骨構造のビルを確立した建築家は、ル・バロン・ジェニー(William LeBaron Jenney 1832–1907)である。彼はパリの芸術手工芸中央学校エコール・サントラル・パリ(École Centrale Paris, ECP)に学び、南北戦争時には技師として活動した。彼がシカゴで建築家としての活動を開始して最初に手掛けた鉄骨の高層ビルは「ライタービル(1879 Leiter Building)」であり、ついで「ホームインシュアランスビル(1885 Home Insurance Building)」が続く。この建物は鉄骨を用いることによって、石造のビルの1/3の重量でつくることができたといわれる。
 「ホームインシュアランスビル」が完成された年、パリのエコール・デ・ボザール(École nationale supérieure des Beaux-Arts, ENSBA)に学んだH. H.リチャードソン(Henry Hobson Richardson 1838-1886)は、シカゴに「マーシャルフィールド商会(1887 Marshall Field's Wholesale Store)」を設計する。この建物も多くの建築家に新鮮な驚きを与えた。
 さらに1891年にはバーナム(Daniel Hudson Burnham 1846-1912)とルート(John Wellborn Root 1850 -1891)によって「モナドノックビル(Monadnock Building)」が、1895年には「リラインスビル(Reliance Building)」がつくられる。これらの建物は鉄骨構造に、それまでの様式的表現に頼らぬ表現を与えたものであった。

 こうしたシカゴでの建築の発展は、構造・技術の大きな流れの中で位置づけられるべき事柄であると同時に、オフィスという、近代の社会が生み、育てていくことになる新しい空間の萌芽として理解しておくことが、この後の空間の歴史を考えるうえで重要である。
 この時代、工場労働者の働き方を観察し、工具の標準化や作業レイアウト改良で、生産性向上を実現したフレデリック・テイラー(Frederick Winslow Taylor 1856-1915)の「科学的管理法(Scientific Management)」が、アメリカ産業界に普及していく。この管理方法は家庭の家事にも応用された。クリスティーン・フレドリック(Christine Isobel McGaffey Frederick 1883-1970)やキャサリン・ビーチャー(Harriet Elizabeth Beecher Stowe 1811-896)などの女性「家庭経済(Home economics, family and consumer sciences, FCS)研究家が、家事の合理化を模索。それは家事労働をいかに快適にするかという視点にまで及んだ。こうした運動や思想も、20世紀アメリカのデザインの推進力になっていく。

サリヴァンとライト

 オフィスビルの成立は近代の都市を基本的に性格づけするものであった。「アテネ憲章」の中で、オフィスビルに関しては、「事務所は、都市内に集中し業務街をつくった」と指摘される。オフィスは都市の中心を占めるようになり、やがてそれが逆転し、オフィスビルの集中する地区が都市の中心部だと見なされるようになる。

 人々は、自分たちの住まいから、そうした都市の中心部に向かって通勤するようになる。職住分離と呼ばれる生活形態が、ここに成立するのである。職住分離こそ、近代社会の空間構造であった。一方に住居を持ち、他方にオフィスか工場などの職場を持つものが、近代都市だった。
 住居に独創を込めた空間を与えた建築家がシカゴに現れたのは、シカゴの商工業都市としての発展、シカゴ派の建築家たちによるオフィスビルの開発というエネルギーに対応する、歴史的必然であったと言えるかもしれない。その建築家の名はフランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright 1867-1959)である。

 ライトはシカゴの建築家サリヴァン(Louis Henry Sullivan 1856-1924)の下で建築家としての修行を積んだ。サリヴァンはリチャードソン同様、パリで建築修行の仕上げをした建築家であった。その下で、ライトは住宅建築の多くを手掛けた。
 彼が独立してから最初に手掛けた建築も住宅であり、それは土地の広いアメリカが生み出すに相応しい低層で広々とした間取りを持ち、諸室は互いに流れるように入り込み合い、深い軒を持つ屋根が低く張り出す形式へと完成されていった。
 プレイリーハウス(Prairie houses)と呼ばれるこの一連の住宅は、独立専用住居という、近代社会の必要とする建築の形式に、新しい概念を与えるものであった。これらはシカゴの郊外、オーク・パークやリヴァーサイドという住宅地につくられた。「ロビー邸(1909 Robie House)」は中でももっとも美しい住宅のひとつである。

 その後、彼はシカゴに「ミッドウェー・ガーデンズ(1913 Midway Gardens)」を建て、東京に「帝国ホテル(1923)」を建てた。軟弱な地盤の上に建つ「帝国ホテル」は、関東大震災を無事に乗り越えたが、第二次世界大戦後の経済成長の波の中で取り壊され、現在は犬山の明治村にロビー部分が再建されている。一部の再建とはいえ、私たちはここに彼の代表作の空間を味わうことができるのである。

 ライトの空間の本質には、独立専用住居という、実は近代社会特有の建築に対する深い共感があるように思われる。1910年にライトの作品集がヨーロッパで出版され(Studies and Executed Buildings of Frank Lloyd Wright / Ernst Wasmuth Verlag)、深い影響を及ぼすのだが、その根底にもやはり彼の建築の持つ住宅的な空間の室の高さが与えた衝撃が大きかった。
 のちに彼が設計するペンシルヴァニア州のベア・ラン(Bear Run)に建つ「落水荘(1937-39 Fallingwater, Kaufmann Residence)」、ウィスコンシン州のラシーン(Racine)に建つ「ジョンソンワックスビル(1936-39 Johnson Wax Headquarters)」なども、同様に人間的なスケール、言い換えれば住宅を出発点とするスケールを持つものだと言えよう。同時に、彼の建築には細密な装飾的要素が大きな特徴をなして設けられている。彼の空間は近代建築によって獲得された自由な空間と、細部の豊かさを両立させることによって、時代を超えた存在を人々に感じさせてくれる。
 細部の重要さについては、彼がサリヴァンから学んだところといえるかもしれない。サリヴァンは1895年の「ギャランティビル(Guaranty Building, Prudential Building)」、1899年の「カーソン・ピリー・スコット百貨店(Carson, Pirie, Scott and Company Building)」などによって、シカゴ派のオフィスビルの形式を完成させるとともに、精妙な装飾細部の豊かさを示していた。そこには彼が修行時代にパリで得たボザール風の細部への細やかな才能が生き続けていた。

 サリヴァンからライトへの建築の流れは、アメリカの建築がヨーロッパから学び、自らの表現を見出していく軌跡だったと言えよう。一方、アメリカ国民の間では建国100年、1876年の独立百年祭のときに再び「ヨーロッパ」が注目された。「メイフラワー号子孫協会」のような愛国者団体がいくつも設立され、アメリカ国内では自分たちのルーツ、英国への熱が高まっていく。人々は英国植民地時代のコロニアル様式やクイーン・アン様式にあこがれ、その影響からアーリーアメリカンと呼ばれる家具スタイルが生まれた。アーリーアメリカンとは、植民地時代から共和制時代へと脈々と受け継がれたアメリカの伝統ではなく、愛国心と英国への夢がつくり出した、19世紀末の新しいライフスタイルだった。

アメリカン・ボザール

 アメリカ建築の自己表現の原点には、トマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson 1743-1826)がいる。アメリカの独立宣言の起草者として知られ、アメリカ合衆国第三代大統領となった彼は、1774年から79年までをフランス大使としてパリに過ごし、フランス古典主義建築に深く共鳴した。彼は建築が一国の文化的価値の反映であり、社会の非常に重要な秩序であることを信じ、建築が美しく、理想に溢れたものであれば、それは国民の趣味を向上させ、世界の尊敬を集めるであろうことを信じた。

 若い国には、もともとの建築的伝統は存在しない。そこで必要とされるものは明快な建築原理であり、古典主義のシンメトリーを基本とする構成法は、新天地に空間の秩序を与える際にはもっとも拠りどころとなるものであった。
 ジェファーソンは1809年にほぼ完成した自邸「モンティチェロ(Monticello)」、1796年に竣工したリッチモンド(Richmond) の「ヴァージニア州議会議事堂(Virginia State Capitol)」、「ヴァージニア大学(1817-26 University of Virginia, UVA)」などに彼の建築への理想を込めた設計を行った。

 政治家としてのジェファーソンは、1785年に西部への入植のための土地条例を通過させ。1789年から94年にかけては国務長官としてワシントン市(Washington, D.C.)の基礎を固め、「国会議事堂」の設計競技を行った。
 彼が通過させた土地条例は、新しい西部の地域を1マイル刻みの東西南北のグリッドに分割して、土地の開発の単位とするものであった。
 都市を計画していく場合には、こうした国土全体にわたる格子状の土地区画に結びつく計画を立てることは困難だったが、限定された区域を格子状の道路の組み合わせによって区画していく方法がしばしば採用された。これはバロック的都市計画と呼ばれるもので、都市を目に見える形で把握するのに都合の良いものであり、19世紀のパリでナポレオン三世の下、オースマン(Georges-Eugène Haussmann 1809-1891)によって大々的に試みられたものであった。

 アメリカではよりいっそう人工的な構成が表に現れたが、1791年にピエル・ランファン(Pierre Charles L'Enfant 1754-1825)によってつくられたワシントン計画、1807年にウッドワード(Augustus Brevoort Woodward 1774-1827)によってつくられたデトロイト(Detroit)計画、1811年に策定されたニューヨーク計画、そして1821年にラルストン(Alexander Ralston 1771-1827)によってつくられたインディアナポリス(Indianapolis)計画など、みな格子状と放射状の道路による土地割を基本とするものだ。このような都市計画はフランスのボザールで試みられたバロック的で壮大な都市計画の主砲と同じ血脈を引くものといってよく、その点でもジェファーソンの理想に合致する精神を示していた。ジェファーソン自身は、18世紀英国の建築評論家ロバート・モリス(Robert Morris 1702-1754)の「建築書(Robert Morris' Select Architecture)」や、同じ英国で影響力の強かったイタリア16世紀の建築家パラーディオ(Andrea Palladio 1508-1580)などを研究しており、イタリア、フランス、英国の建築の伝統はこうして徐々にアメリカに根付き、アメリカ化していったのであった。

 フランク・ロイド・ライトの軌跡は、そうしたアメリカの伝統が真に育ったことの証左と言っていい。そこに、他のヨーロッパ周辺諸国に見られたようなロマンティック・ナショナリズムからの出発とは異なりながらも、ある意味では自らの伝統を築く上での同質性が見出されるのではないだろうか。こうした点は、日本の近代建築の歴史の中には存在しなかったようにも思われる。



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