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ジャパニーズ・モダン・マスター [デザイン/建築]

イデーのカタログブックに寄稿しました。


「時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしていることは、だれひとり気づいていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとり認めようとしませんでした」(ミヒャエル・エンデ『モモ』より。和訳は岩波書店刊。1976年)。

わずか50年前の写真や映画の中の日本を見ると、現在の経済発展が奇跡と思えるほど、人々は質素に生活していたことが分かる。豊かさの夢とともに、今日の貧しさを甘んじて受け入れ、慎ましく日常を送っていた。こうした日本人の日常生活を少しでも豊かにしたい。それには何が必要なのか。20世紀半ば、デザイナーや建築家たちは、自らの軸足の片方を庶民の日常生活に置いていた。人々の暮らしに希望を与えようと、海外の事例を謙虚に学び、欧米のモダンデザインを咀嚼し、日本人の暮らしの理想に想いを巡らせていたのである。それはデザインの力を身につけた者の使命感だったのかも知れない。

暮らしの豊かさとは何か。それは豪華な装飾でもなければ、高価な素材に囲まれて暮らすことでもない。ただ便利なことでもない。当時の日本では、(木と土しかない)最小限の資源と丁寧な仕事でつくられた生活道具で、労働に疲れたカラダを優しく受け止めることや、美しいフォルムに日々の感動を重ねることから、豊かな暮らしをスタートさせならなかった。それゆえに無駄な形やエゴは捨て去られ、機能と思想を体現するフォルムだけが磨かれていった。シェーカー教徒が神に捧げた木工が凛として美しいように、社会に即した捨身業のような彼らの純真な仕事が、美しくないはずがない。やがてそのフォルムは機能すら超えていった。あるものは詩情豊かに、あるものは研ぎすまされた刃の美のように。そこに、時代を超えるスタンダード、ジャパニーズモダンデザインが生まれる。これが日本の近代家具の出発点でもあった。

だが、その後、高度成長期からバブル好景気を経て、日本人は豊かさの現物支給を全身に浴びてしまう。常に更新される製品と情報に圧倒され、わずか50年前の美しい道具の記憶のほとんどは昔話か忘却の彼方だ。私たちの生活は確かに豊かになった。美しく便利な家具も増えた。しかし今、改めて暮らしの豊かさとは何かを考える時、現在をすべて肯定的に捉えられないのはなぜだろう。私たちは、あの、デザインの出発点まで一足飛びに遡り、“彼ら”とともにもう一度、足下から暮らしを見つめる時間を求めているのではないか。今ならまだ、それを辿ることができる。そう、わずか50年前のことだから。

川砂から砂金を探すように、50年の時からジャパニーズ・モダン・マスターたちの良質な仕事を探り出して、そのデザインを復刻するプロジェクトが昨年スタートした。スタンダードという言葉の重み。サムシングニューイズムやレトロエキゾチズムの視点で復刻を考えるのではない。多くの人の暮らしに受け入れられるよう、生産性や経済性も見直し、名品の希少性を煽るものでもない。真摯に「生活を探求」するための知恵を探索する、息の長いプロジェクトになるはずだ。私たちが彼らの家具を再評価すると同時に、時代を超えて、彼らの家具によって逆に、自分たちの暮らしも再評価されるだろう。その機会が得られることを、素直に喜びたい。


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